scene23飼い馴らされるとは
さてさて、ここは例の温泉旅行集合前日のカフェ「ダバンティ」の蜜月席。
ここで元飼い主様の仁科くんを待つ俺、となぜかココナも同席、しかもなんの説明もないままただ待たされるという時間に文句は言わない俺ら優等生。
ところで、この蜜月席は命名通りのムードを醸しだせる店の奥にある三つの席の一つで、バブル時代で言うとVIP席、天蓋ベッドをイメージしたような華やかさと妖しさを演出する金銀の糸で紡がれたレースに覆われている。蜜月、『 luna di miele ルナディミエーレ』は、この装飾からもまさにハネムーンと訳したいところだが、うちでは違う。月という言葉の使い道は妖しさこそ本筋、と言う冥府の神好みのコンセプトがあるんだ。
そのコンセプトの基には『Hijo de la luna イホ デ ラ ルナ』月の息子という曲がある。
最初に生まれた子を月へ差し出すという約束で惚れた男と結ばれたジプシー、月はその願いを叶えたが生まれた子は肌と瞳の色が男とも女とも違い、白い肌に銀色の瞳をしていた。男はその子の素性を不審がり女を嬲り殺し、その子を女が祈った場所へ捨てる。そして、月は満足げにその子を子守する、満ちた月は息子が微笑むから、欠けた月は泣く息子をあやす揺り籠になるため……と唄われたスペインの曲だ。
ヨーロッパでは月という言語にあらゆる不吉なイメージを持つらしい。様々な伝承からネガティブな意味で扱われるようだが、この物語で表現されている月と歌詞の事情は、人の悪業を嘆いたり残酷さを哀れんだりするものではない、と仁科くんは説明した。
「和の国で言えば、この息子だって悪業を積んでいる」
いわゆる親不孝なのだという。
「月は子が欲しかった、だけど女を騙したわけじゃない。もしくは、ただ女に慈悲を与えるがために子を望んだ……のかもしれない。子は愛されないだろう……月は人の心を知らないから生まれた子を愛されないと思い、自分に似せた子を産ませたのかもしれない。だけど、子を差し出すくらいだから女は子を愛さないだろうというこの解釈、これは月の浅はかな憶測を描いている、と僕は想う。他所の子でも慈しむことができるのも人間だからね。生まれた子を愛さないのか、愛せないのかなんてわからなかったはずなのに」
この説明の時の仁科くんは、とてもこの物語に固執しているように見えた。
そしてそんな風だから仁科くんの様子がいつもと違う、と感じた。
「僕はここを、相席者同士の物語をよく思考し想像し、伝えあう席としたい」
と締めくくったあの時の仁科くんの表情は、薄いブロックノイズがかかったみたいに少し、歪んで見えた気がした。
いつも決定事項しか伝えない、だから当然無表情に無感情に抑揚なくきっぱり話し終えるはずの仁科くんが、ほんの一瞬目を伏せたんだ。それに物語の部分の尺はあまりにも長かった。この『 luna di miele ルナディミエーレ』という席は予約なしではどんなに満席でもお通ししないという特別感を伝えたかったのは理解できるけれど、それにしても……釈然としなかった。俺は仁科くんの表情を追った、すると仁科くんはその綺麗に吊り上がった目じりを薄く伸ばして涙袋を膨らませ、下三白眼の視線は彼の右肩先を探すように動いた。その様子が俺にとっては不自然に感じられたんだ。
「アツミ」
と呼ばれ、同時に俺の右手の甲になにかが覆いかぶさったのを感じる。
俺は空を仰ぎ見ていた首の捻じれを逆向きの下方へ修正し、小さな手に覆われている自身の手を見た。そしてすぐさま右隣りのココナの表情を確認、
「あ、ごめん」
と謝った。
そしてまたすぐにココナの手は剝がされたので、俺は俺の片方の手で甲を包み込んだ、まるでココナの手がついさっきまでここにあったことがバレないように、そう、隠すみたいに。
「悪いね、随分待たせてしまって」
ああ、俺のことを見降ろすこの目、久しぶりだな。
ココナが俺の名を呼んだ理由がわかった、俺の元飼い主様、冥府の神、ハーデス・カヲルのご登場だ。久しぶりだと言った仁科くんの目線だが、普通なら気分が悪くなるのだろうけど、俺はもうすっかり馴らされてしまっている。
馴らされている、だなんて大袈裟な表現かな。でも俺にはしっくりくる言い方なんだ。
それにね、今俺らは着席していて仁科くんは立っているのだから、見降ろされるのは当然、ココナだっているし、仁科くんのこの目線に他意はない。そうだ、だからいつも通りだし俺にとっては正しい視線の向きだという解説を自身へ。
「早速だけど二人には前のりで現場へ急いでもらう」
無言の俺ら、
「今夜の新幹線のチケットを準備した、三時間後出立のための店前集合、駅までは手配済みのタクシーで移動、夕食は宿泊先の『環 たまき』のスィートでとっていただく」
まだ無言の俺ら、
「イベントまでペアで活動するということで宿泊もそのままスィートで」
と、もう無言に耐え切れない俺、
「そうだよ、ココナと同室で宿泊だよ」
俺ではなく仁科くんが話す。
俺はいったいどんな顔をしていたんだろうな、なぜこうも仁科くんにはお見通しされてしまうのだろうな。
「スィートって、宿泊って、それはイベントの報酬だったはずじゃ」
「そうだね。だが撮影があると言っただろう。あっくんは発熱騒動でスケジュールを乱してしまった、前のりしてもらい遅れをカバーして、オリョウを少し休ませたいんだよ」
俺はいきり立とうとする気を呑み込み咽た。
ああね、仕方がない、そうだった、俺のせいで皆に迷惑をかけたんだ、前のりなんて至極当然の修正事項だ、異論など不適切。だけど、ココナまでもが同行する必要があるのか?
「ココナのことかい? ココナは君のペアであり優位のゴールド、唯一のホール担当だし組んだことがないだろう? なにかと互いの距離を詰めるのにいい機会だね」
「私は是非行きたいんだけど」
となぜかココナがこのタイミングでこんなことを言う。
そして、
「ごめんなさい、余計なことを」
すぐさま謝罪するココナへ、
「君らしくないねココナ。だがいいさ、この席では」
冥府の神、俺の元飼い主様が天蓋に編み込まれている金糸の模様を人差し指でなぞりながら優しく憂うような表情で言う。
その指先、尖った指先が美しく舞うのに見とれてしまう俺は、強いてココナの発言を忘れないようにしようと脳内にしまい込んだ。
なにかが妙だ。
消極的ではない女性だということは感じてはいたけれど、仁科くんの発言に割って入るなんてどうかしている。俺のように元飼い犬で駄犬であるならそういうこともしでかすだろうけど。
それにしてもこの発言、俺がこの件で迷っているように見えた上で後押しをしたかったと思わせる言いぶりじゃないか。ということはココナは俺との宿泊を推したいということになるけれど、それって俺のことが好きだから……へ、繋がっていくの?
俺の脳内は、過日の俺の部屋でのココナとの会話へシンクロしようとする。
いや、馬鹿な。先輩として、ペアとしての意見だろう。
仁科くんの言う通り俺とは組んだことがないのだし、ホールのゴールドというのは貴重な存在だ。プラチナに引けを取らないテクニックと経験が必要で、シルバーのフォローを直接的に行う立場だ。俺がキッチンのファフィくんと仲良くなったのだって、彼がゴールドであることも関係している。
それに、ココナは仁科くんから特訓を受けているのだし、仁科くんの意見に従うように促すのはその立場からも当たり前じゃないか。そして、ペアが決まったのだからなるべく同じ行動をとりたいというのは、店の方針云々とは関係なく向上心が高ければ自らが欲するところだ。
ああ、俺ってつくづくご都合主義だな、どこを探ったら『俺のことが好きだから』という意思表示の言動だととれるんだよ。と、我が身の浅はかさに落胆したとき、
「さて、あっくんも理解できたようだし解散するとしよう」
俺の元飼い主様は、元愛犬にはもう用済みと言わんばかりに一瞥をくれて颯爽と立ち上がり、さも優雅にレースを体側に流して去ろうとした。
揺れるレースまでもが優雅に見える、と、後姿のまま後戻り体を捩って今度は天蓋のレースには触れもせず、金銀の糸の織り成す不規則な空の、その向こうから仁科くんは言った。
「僕も後を追うことになる。では、『環 たまき』で会おう」
全く、最後までどうしてこうも俺の思考を搔き揺らすのだろうかハーデス・カヲルは。
なんなの?
会おうと言うからにはまたなにか向こうでなにかが起こる、ということ?
たった今、ココナと食事をして同室で宿泊せよ、という命をいただいたばかりだけど?
重要な説明はもらったが詳細が全くない、そう思うともう俺はどんよりし始めた。すると、
「カヲルったら相変わらずね」
と相も変わらないのはココナの方だ。
可愛いが渋滞中の笑顔のココナ、その笑顔があの『爆乳メロンになりたいっ』と『アツミと恋人になりたいっ』と言った時と同じで、例え内容が違ったとしても俺のはぁとはゆらっゆらっしちゃうのだ。こんな時になんて余裕だ、ココナよ。
だがアツミよ。
ああ、ああ、そうだ、そうだった、そりゃ余裕だよな?
だってココナはペルセポネ、冥府の神ハーデスの嫁なんだぞ。そら旦那のことはよく知ってて当然だし、呼び捨てな仲だもんよ。はて、呼び捨てといえば俺らも同じだけど?
ん?
ココナって、他のメンバーのことはどう呼んでいるんだろ?
はぁ……アツミよ、お前……俺ってさ、ほんとガキだよな。そもそもこの年で呼び捨てだからって仲が深いとかそんな風に感じるのって子供じみているよ。それにここではメンバーのことをニックネームで呼ぶ決まりだ。親しさの尺度なんて関係ないのに。
でもなぁ、なんだか違うんだよな。仁科くんがココナを呼び捨てにするのとココナが仁科くんのことを呼び捨てで呼ぶのは。
「ね、アツミ。遅れるとカヲルが拗ねちゃうよ」
というココナの声で俺の脳内がまたゆらゆらする。
「拗ねちゃうって。カヲルくんに限って拗ねることなんてないでしょ、俺が震えあがるくらいには叱るだろうけど」
「んふ。アツミは本当にカヲルのこと知らないのね。カヲルはアツミのこと大好きなのに」
そうさ、知らないよ、なに一つね。
これはとてもはっきりしているよ、はっきりしていることがあると落ち着くな、ほんと。このココナの発言は二度目だ、そう、俺は仁科くんのことをなにも知っちゃいないという確信に触れられると安心できる。
いや……待てよ、この数日で誰もが仁科くんの俺に対する評価がいいというからには、少なくとも彼が俺の仕事ぶりに好意的であることは知った。
いやいやいや、それどころか、
『タクミ、あっくんはうちでも秘蔵っ子に違いないんだよ』
というタクミさんへ言った仁科くんの言葉。
これは称賛ともとれる。どうしたことだ、なぜ今俺はこの言葉を思い出し、このことに気づいたんだ。
『……カヲルはアツミのこと大好きなのに』
この言葉、だな。
こんなにシンプルに言われたら、まるで本人から告られたくらいに響く。
ああ、でもなぜだろう。
俺はまるで仁科くんのペットにでもなったようにその関係性を描写してきた。
そうすることが、精巧に象られた球体の箱にみっしりと収まるゼリーのように自然だからだ。
そう、そうだよ。俺は愛犬然り、彼に連れられて彼の言う通りに動いているだけなのだから。ほら、あの視線。背丈なんてさほど変わらないのに、仁科くんは俺のことを見降ろすんだよ。そして最初は驚いたけどそれも一瞬だった。俺はその視線に嫌悪感を抱いて抗おうとはしなかった、だって、だって、そうされても仕方がないって、そんな風にどこかで合点できることばかりあったからだ。このたった数日で、イヴからの数日で、俺は球体に収まっているゼリーのように何の苦もなく、仁科くんには逆らえないということを思い知らされているのだから。
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