scene17クリーピングデビル

 あちこちで握手やら会釈やら、俺らはなかなか全員集合できないでいた。

いつの間にか俺はリョウタを見失い、一人で立っていた。というか、立たされている。もう足が動かないんだ。リョウタを見失った瞬間さえ見失ってしまったように俺は、リアリティを感じられなくなっていた。

だって一人になった俺は、さっきのリョウタの真面目な顔と、俺のために会話を閉じてくれたことを思い出し、むやみに沈んでしまったからだ。


心臓が、噴出する前の溶岩みたいだ。

どろどろと重くゆるやかに対流する。


はしゃぐ鼓動、リョウタと店への帰路を急いだ時間、俺はすごく幸福感に包まれていた。あんなに心底、自分の気持ちを素直に受け入れたことはなかった。

あの時間、俺は自分のことを受け入れることができて、なんだか嬉しくなった。リョウタへの気持ちは『イイことシあう仲』のものじゃない、恋愛と言うものだろうって、そう自覚する決意ができたストレートな感情が、すごく心地よかったんだ。やっと正しいことができるようになったみたいで、俺は自分のことを少し誇らしく感じたんだ。

俺はもう、俺のことを見殺しにしない……そう誓えたようで。


見殺し……か、懐かしいなこのフレーズ。

想い出としてちらつくことさえも避けてきた存在が、今現れる。


 安いホテル、嗅いだことのない甘い煙草の匂い、いかがわしさしかないベッドカバーの模様……と、いつもなら近づこうとさえしないだろう白肌のタトゥーの男。

『アツって男としかやったことないの?』

リョウタの問いに動揺した理由は、あの人の存在……だ。

俺は自分の正体を知るために『陰間かげま』の元を訪れた。

密事の相手をネットで拾うのは簡単だ、俺が未成年であっても問題などなかった、相手はプロなのだから金さえ払えば心配することはなにもなかった。

ただ、俺は、訪れたあとのことをなにも知らなかった、だから、全て……なされるがまま……従うしかなかったけれど。


 興奮した。

瞬く間に達してしまった俺は、自分の正体を知るどころじゃなかった。

達した後は白々しい時間に身を置くことが情けなくなって、すぐさま部屋を出てしまった。

が、相手はよかった。

アキラと言った。

年齢不詳、同族の先輩としてのアドバイスをしてくれて、後に俺の世界がどこで繋がりそうなのかを一緒に考えてくれた人だ。

色白なくせにリョウタほどの雄臭さがあって、ゆったりと話す人だった。男娼、ヨーロッパの男娼をイメージしたのはきっと青緑のカラコンのせいだ。

白が好きなのかいつもでかい白のパーカー、黒と灰と白のメッシュが絡んだ韓流マッシュの髪は、緩いパーマが甘く、唇のピアスのいかつさをカバーして色白の肌にも不気味に似合っていた。

会うときは必ず同じカフェ、『ここのテーブルは肘をつくのに丁度いい』と言うアキラさん指定の場所だった。

アキラさんは視線を合わせるのが苦手だと言い、いつもテーブルに右肘をついて手の掌か甲に顎をのせ、窓の外か飲み物を見ながら話した。彼は、大事なことを話すときは、彼の唇の左端のピアスの真珠にねじねじと触れたりした。右手の親指で顎を支え、人差し指で器用に真珠を左右に弾いては捩じるように弧を描き、残りの指は綺麗に揃えて折り込まれていた。

人差し指が真珠を弾く度に、唇の左端が引き攣ったり緩んだりするのが気になって仕方がなくなる。そして、弾かれ左右に揺れる真珠は見える角度で真っ白な光の玉を飛ばした。その光の玉と口元の奇妙な動きが不規則なようで予測できるようでもあって、予測できるようになると集中力が解かれるように落ち着いた。

彼は俺のことを自分のタイプだと言い、その後の、ソノモノの関係を誘ってくれた。が、俺は怖れ、断った。

二度目がどうかで見えてくるだろう、二度目の体験で、自分のことを自覚するだろうと言われたからだった。

臆病な俺は、自分探しだと言い出したくせにその大事な二度目を拒み、そして、会うには会うが話をするだけ、と言う関係がしばらく続くことになった。


いつものカフェ、アキラさんはまたあのピアスの真珠を弾きだした。


「こういうのは性的趣向がどうとか、そんなの重要じゃないんだよ。ノーマルかどうかとかね、意味ないんだ。ただ君は水を欲しがるサボテンだ。もし君が水を求めて我が道を進めば、違和感を感じるたちが君のことを狂ったのだと恐れる、そうしてそういう者たちに道を塞がれる。抗わず……同調すれば君はそこで干乾びるだけさ」

光の玉が俺の瞳を射している、

「君には瑞々しいサボテンであれと言いたい」

ああ、いい言葉だ。

俺は眩しいはずの光の玉を瞳に吸い込んだ。と、もう弾くのをやめたアキラさんの人差し指は真珠を超えて右の唇の端に辿り着き、ぐいっと、その端を乱暴に押し上げた。いつもと違う動きに、俺の解かれていた集中力が緊張した、


「そう、君だけは……君のことを見殺しにするなヨ」


アキラさんは、「ヨ」だけを聞こえるかどうかの酷く際どい小声で言うと、今度は窓の外を眺めて、手の甲に顎を乗せ、またいつものように話し出した。

こう言ったんだ。


自分は『カラダを疵付けた分だけ戦った』と。


その言葉を最後にアキラさんとは会わなかった。

知らない世界の話は、おとぎ話のような夢見心地な浮遊感などは与えてはくれなかったし、アキラさんが知っている世界の話は、無慈悲になぶり殺される者をあざ嗤うような話ばかりだったからだ。


俺は、なぜか小学生のときのいじめ問題の話し合いを思い出した。

先生は声高らかに言った、いじめは卑怯だと。だがこうも言った、いじめられた人はかわいそうだ、だがいじめをしてしまう人はもっとかわいそうな人なのだと。

この言葉に端を発してクラス一の正義感をぶん回す女子が、同胞たちを先導して先生を批判し、このときクラスは、突然変異を始めたように目まぐるしく形象を変えていった。

俺は、この間、当事者たちの他人事のような表情を認めて馬鹿らしくなった。と同時に、本当は言いたいことがあったのを堪えていた。

『傍観者は悪くないの?』

クラスのほとんどはなにもしなかった、と言える。

その場の注意程度でいじめが無くなるはずなどなかったのだから、いじめは、『見て見ぬふり』が増長させていることは確かだ、俺はそう気づいた。いじめられっ子を庇った俺はヒーローにはなれず、ただ目をつけられただけだったんだから。これあるある、でしょ?

正しいことだと信じていられるのには、周囲からも認められる必要がある。

だがその数はあまりにも少なかった。『見て見ぬふり』の傍観者たちが、自分たちの所業が社会にとっての潤滑油だと信じていることも、俺はこのとき知ったんだ。

俺は、あのクラスの傍観者たちがいじめる側の輩よりも醜悪だと感じた。

だが、そういうことは、いつもどこでも起こっていた。それが常で、人間とはそういうもので、社会とは……うまくやれる者しか嗤える側に行くことはできないところだ。そう、多くの傍観者たちが上手くやれている側であって、嗤う者になることが成功者だとも言うのだろ?


アキラさんの抵抗……彼のタトゥーやピアスの疵は、彼の真珠をはじく時間の話は……俺に考えることを強要した。

彼との出逢いは現実だった、強烈すぎる事実だった。

俺は……逃げたかっただけなのに。


そうだ。

俺は彼との出逢いで気づいたんだ、これは自分探しなんかじゃない、俺はどうにかして都合よく生きる術を探していたんだと。ほどよく欲求を満たし、水を欲しがらないで済む生き方を手に入れたかったんだ。だがアキラさんは、

「サボテンだって枯れるよ」

と言った。

そして、

「俺らみたいなのはクリーピングデビルだね。生き延びるために自分のどこかを死なせなくてはならない、のさ」

と言った。

生き延びるために死なせる、と言うサボテンのクリーピングデビルは、先端に向かって根を張り栄養のある土壌で根づくと、後方の一部を腐らせ新しい幹の栄養分にするらしい。


俺も?


どこか死んでいるのかな、ああ、そうだ、死なせたよな、気持ちや感情を。

いろんな理由をつけて、思いつく限りの原因を理由にして、俺は、俺だけの気持ちを死なせた。

アキラさんと出逢って俺はいくらでも水を欲しがるサボテンとして生きることができたはずなのに、俺はまた……見殺しにした。

それは二度目の見殺し、だった。


『AQIRA』

と記された電波信号の中のプロフに俺は惹かれた。

初めて好きになった人、部活の先輩の名前と同じだったからだ。もしかしたら……という甘い妄想にまんまと溺れてしまった。

俺は、思春期のはしたない短絡的な思考の中で、先輩が俺の気持ちに気づいていると感じてしまった。先輩との会話、ボディタッチで生まれる奇妙な『間』に、仄かな期待のコピーを作り続けた。

きっと気づいている、そして受け止めてくれる……と。

コピーは洗練されていた、期待が進化する先は願望だ。


巨大な願望の嵐をうまく切り抜け、コピーを抹消、幼さが武器になってくれたお蔭で夢をあきらめることはできたけれど、残像までは消してくれなかった。

俺の中には実行しなかったゆえにくすぶり続ける願望の残像が、マグマのように音を立てるようになった。それでも時間をかけて、溶岩は乾き、簡単には燃え滾らないようになった、けれど。


「雄は肉体と精神を別けると言うけど、マインドによって支配されるものだと思わない?」

十代の少年には意味がわからなかった。

「肉体や精神ってものは自分じゃどうしようもできないもんさ。思わずセックスがしたいって思うでしょ、肉体や精神は本能的に刺激されてしまう。でもね、マインドは自由自在だ。したいけどやらない、したいようにやる、したいと思ってやる、自分で決めるものだから」

アキラさんの言葉はまるで呪文のようだった。

「心が折れる……だって? 心はどこにある? 精神なの? あのね、精神だから折れるのさ、これは抗えないという意味だから。だが、心がマインドにあれば折れることはない」

アキラさんの呪文は俺のことを怖がらせた。

「君は、マインドを精神のように扱って、いつも乾いている……よ」

乾いている、マインドが?

精神が?

「言っただろ、マインドは自在さ」




「あ――っくん」


今度は誰だ?

聞き覚えのある声と呼び方に、俺にかかった呪文が蜘蛛の子を散らして消えていった。

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