scene16真面目な顔をしたリョウタ

 事務所を出るとそこには、まるでつい惰性で鑑賞してしまう深夜番組のような、ダルい空気が漂っていた。

ほどよく酔った人間らが集う空気は淀み、ゆらぎは深い。そう感じて俺は新しい空気を吸いたくなって歩き出そうとした。すると、

「なぁ、なんかあったんか?」

リョウタがなんかしらのドリンクを俺へ渡してくれた。

俺は透明な氷がライトに負けないくらい煌めいて、シュワシュワと聞こえもしない音を想像させる無数の気泡が暴れているグラスを受け取り、ためらいもせず喉へ流し込んだ。

「ンあ、うめぇ」

すっきりジントニック、ちょっと頭が冴えてくる。

クラッシュアイスたっぷり、リョウタは俺の好みをよく知っている。

「ほぉ――言いたくないんだ?」

なぜかまたもやリョウタの勘違い。

ああ、そうだなドリンクを味わいすぎてた、返答してないじゃん俺。

「そんなことないよ。ただいろんなことがありすぎた」

まんま心中を告白、するとリョウタがぐびぐび呑むのを見て、

「バカ、店だよ、やめろよ」

慌てて止めると、

「は? 水だよ」

と言う。

で、ほっと一息ついて俺のことを覗き込んだリョウタは、

「で、いつまでお預けなんだ?」

と言う。

はて?

お預け?

おあずけおあずけ……あああ!

「そうだった! 事務所!」

俺はドリンクをリョウタへ預けて、

「待ってて」

と手についた水滴を腿でゴシゴシしながら先を急ごうとした。

が、慌ててUターン、

「いや、お前が来い!」

とリョウタの腕を掴んで事務所へ連行した。

そう、なにもこんな混雑した場所で公開告白みたいに渡すことはない、ちゃんと感謝の言葉を添えて渡さなきゃ、そんなことを咄嗟に考えた。と、同時にこう思った、俺って今日一日で思考と行動の能力がUPしたのかも……って。これまで咄嗟に何かに気づいて行動できたためしがないからね。


 事務所へ入るとリョウタは窓の前のソファへ、そして俺は自分のロッカーへ、あの『真っ赤なダンスシューズ』を取り出しに向かう。

豪奢な包装などない、無印の真っ青な紙袋が、狭いロッカーに押し込まれるときについたしわを模様のようにつけて出てきた。そのしわを軽くはたいて伸ばし整えてから両手で持ち直す、少々味気ないが中身で勝負、俺は一旦深呼吸をして振り返り、リョウタのところまで進んだ。

「うわぁなになに!」

わざと大袈裟にはしゃぐリョウタがもう嬉しそうな顔をして姿勢を正すのが、俺にとっての期待をも煽る。

中身を見たらもっともっと嬉しがるはずだ、俺はリョウタの隣に座り、

「研修ありがとう」

とだけ言って紙袋を手渡した。

リョウタは、受け取った途端にせっかく伸ばしたしわを構いもせずに、やかましいくらいに紙袋の雑音を散らしながら乱雑に、せかせかと箱を取り出した。

「おぃ、まさか」

箱は裸、だがリョウタにはその中身がわかったようだ。

「……うそだろ、おおお!」

リョウタは箱を開けつつ立ち上がり、体を揺らし、カウントを取りながら踊るように両足のかかとをこすり合わせ、器用に靴を脱ぎ始めている。

そして、まだありがとうを言わないリョウタは、今度は座って靴を並べ、両足をしっかりと履き通した。通した途端、俺のことを見て爆スマイル、またすぐさま立ち上がり席を離れて何かの曲を口ずさみながら、ターン。

そうだ、これだ、この顔だよ……すんげぇ嬉しいよ、今絶対俺のほうが嬉しい!

いつの間にか俺まで立ち上がってしまう。

だが、やっぱり嬉しいの表現はリョウタが勝る、

「アツ――っ、ありがとありがとチュチュチュチュ」

と、リョウタは両腕を伸ばしたまま俺へ近寄ってきて両手で頭を固定、顔中にキスをしてくる。

「はぶっ! やめ、やめろよ」

俺は愛犬に弄ばれる飼い主みたいに嬉しそうに嫌がった。

そうしてリョウタはいくつかのステップを試したり、鏡の前で靴の後ろ面を堪能したりして、最後に俺の顔を、満面の笑みで満たして見た。そしてどっかりといつものように腰を下ろしたリョウタはうつむいて顔をパンパンしている。ずっと笑顔だった俺もミラーリング、頬をスリスリしながら表情筋をデフォにリセットする。

やっと落ち着いた俺ら、リョウタが姿勢を正して言う。

「あ――アツ、まじありがと。俺頑張れそうだわ」

俺も腹の底から答える、

「うん。頑張れよ、アズーに負けんな」

自然に出た名前に、

「あ――それ今言うなよぉ」

と、おどけるリョウタ。

俺も礼を言わなきゃ、そう思いかしこまった俺、

「研修、本当にありがとう。俺はデキが悪かっただろ。リョウタのお蔭でここまでこれたよ」

自分でも自覚するくらい無駄な動きが多かった俺。

それから、照れもあってなかなか声も出ていなかった。そんなときリョウタは、注意するのではなく大きな声で話しかけてくれた。つられて俺の声がでかくなるのを自然に教えてくれたんだ。

俺は、リョウタのことを先輩として尊敬するようになった。

憧れから肩を並べたいと思える存在、いつか追い抜いてライバルになってみたい相手、そんな人間とめぐり会ったのは初めてだ。それはリョウタのお蔭だと感じている。たかがバイト先だと思うかもしれないけれど、この競い合いのなかで知った達成感や後悔、他者との関係性の中で体験できたことは、俺の生き方の幅を広げてくれたと実感しているんだ。

「ばっか、お前に教えたのって基本しかないよ。カヲルンに期待されてた通りだったし、俺もペア営業やりやすかったんだぜ秘蔵っ子め」

ああ、またしても不吉な名前が……俺はすとんと座って置かれているグラスに手を伸ばした。

この楽しい時間を薄めたくない、溶けかけの粉々の氷が九割残っているジントニを一気に煽り呑み、

「カヲルくん? 嘘だよ、褒められたことすらないわ」

と、なるべく声のトーンを落とさないように言った。

リョウタは俺のようにグラスには手を出さず、俺の方へ体ごと向いて言う。

「お前さ、アツ。この機会に言っていい? もっと相手の言葉をストレートに受け取れよ」

リョウタは今まで知った中で一番真面目な顔をした、と感じた。

そのまじめな表情がこの場のムードを更に引き下げるに違いない、そんな予感にうろたえて、

「ああ、もっとしっかり聞くようにするよ」

と慌てて答えたら、

「いやそれだよ、違う、俺はアツに素直になってほしいんだ」

と言う。

「お前は優しいから、相手がどういうつもりで言ってるんかって、いつもちゃんと考えてる。それはすっげぇいいところだし俺も好きだよ、アツのそういうところ。だけどさ、気持ちは受け取ってくれない、そういうところない?」

と言うリョウタの告白を聞いて、俺は沈黙を守りたくなった。

気持ち?

……って言ったって。

相手の気持ちなんてわかるはずがないさ。仁科くんがどう期待していたかわかんないけど、だって本当に真正面から褒められたことないんだも。秘蔵っ子って表現も大げさで嫌だ、俺は誰からもそんなことを言われたことなんてないし、ましてや仁科くんには振り回されっぱなしじゃないか。

あ、待てよ。

さっき、リョウタはペア営業やりやすかったって言ってくれた。なのに俺は仁科くんのことしか答えられなかった。俺はすぐさまリョウタへ謝ろうとした。だが、リョウタの時計は俺のより進んでいたみたいだ、

「俺のこと好きなのかって訊いたときだって、結局お前は……あ、いや、いいやこれは」

と俺が予想もしなかったことを言いかけ……やめた。

言い終わったリョウタが背もたれにダーンと身を預けたせいで俺までバウンドしている。


よかった、リョウタが諦めてくれて……と、俺はそう感じた。


リョウタへの想い、この気持ちとちゃんと向き合う決心をしたのは昨日が初めてだ。だから、今このことには触れてほしくなかった。俺は、居心地を悪く感じて、ついうつむいてしまう。

「俺はアツと話し合いたいことがあったからさ、だから何度もアプローチしたんだよな、ここんとこ。だが正直、お前の気持ちとか、本音をどうやったら引き出せるのかわかんねぇ」

リョウタが萎れた声で言う。

なんだかこんなのリョウタの方が可哀そうみたいだ、俺のせいでリョウタが今悩んでいるんだよな。今の俺は……申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

やっぱりリョウタはちゃんと俺の気持ちを受け止める準備をしてくれていた。だけど、俺はまだ伝えられるなにかを持っていない、説明できたり形にできるものを持っていないんだ、そう言えばいいのかな。

いや、好きだ、その気持ちだけを伝えていいの?

それだけを伝えればいいのか?

それからは?

「悪かったよ。追い詰めるつもりないから、ごめん」

リョウタが辛抱を切らしたように俺の無言を破る。

俺は余計に申し訳ない気持ちになって、

「いや……ほんと、ごめん」

結局のことろ俺は謝ることしかできなかった。

すると、

「ううん! 俺はアツが好きだからな! それは覚えてろよ!」

リョウタが、いつもの俺たちのムードを取り戻してくれた、優しさが入り混じった強引さで。

妙な気遣いとかそんな風じゃなく、リョウタはこれ以上は無駄だとサッパリ手を引いてくれたんだ。

ああ、ゼウス・リョウタ、さすがだよお前は、すんげぇ眩しい、よ。

リョウタって……ほんとにいい男だ、俺は改めてそう感じているよ。

「はは、好きとか言うなよバカ」

そうして俺はジョークを偽装した。

「ふん! ありがたく思えよ!」

リョウタも俺の偽装に付き合ってくれた。



「カフェダバンティの皆さん、今夜はありがとうございました」

ポセイドン・タクミがにこやかに挨拶、長い夜は幕を下ろすみたいだ。

といってもイヴは既に昨日のこと、アナウンスを聞き届けて立ち上がろうとしたら、

「アツ、俺明日朝早いから泊めて」

リョウタの言葉に、

「いいよ、まずはかたそうぜ」

そう答え、事務所を出て閉店準備前の集合場所へ集まる俺ら。

前を行くリョウタの足にはもう、あの『真っ赤なダンスシューズ』はなかった。

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