scene10女神の唇は渇いてる

「なんだ?」

俺のメンタルのせいじゃなく、事務所のドアが物理的に重い、いや重すぎるんだ。

フ――ンッって力を込めたら、カタンカランカランってなにか棒のようなものの転がる音がした。

「なんだ、なんだ?」

二回目のなんだの瞬間、俺はまたあの景色を見ることになる。


半身だけ振り返ったココナ、がいる。

この捻じれ、相変わらずのキュンだ。

「ココ……ナ」

窓の外の街の、クリスマスのイルミライトが、カラフルなキャンディが浮かんでいるみたいに艶やかに、窓の向こうからココナの頬を染めている。

ココナはあの時より少し痩せたのか……いや、少女から少し成長して、ほっそりとしたみたいに見えた。ブラウスの肩が尖って見えて、それでもあの時と同じように姿勢よく儚げに、やっぱり窓の外を覗いていたみたいだ。


「ブォナ セーラ」

礼儀正しいココナ。

「ブォナ セーラ」

今度は俺の挨拶もちゃんと、正面で受けるココナ。

は、と次の瞬間に俺はどこかに転がっているはずの棒を探そうと、足元から視線を伸ばす。伸ばした視線のその先のドアの開いた先には、クリスマスの飾りつけを天井や壁から下げるときに使った、先が二股になっているプラスチック棒が転がっていた。すると、

「あのね、私、雪を見ていたくて! ちょっとあの……ごめんなさい」

ココナはしっかりと俺へ向き合って頭を下げた。

すぐに状況がつかめた、ココナってこんなことをやらかしちゃうんだな、と俺は笑った。そしたらまた謝ったココナ。素敵なデジャブ、そして「雪を見ていたくて」と「ちょっとあの」の間に、ココナのあの感じのいい瞬きもあった。

それでも「ごめんなさい」のペコリは初おめみえで、そのペコリあとのこの笑顔は瞬殺ものだ!

改めて感嘆、な、なんだこの生き物は。


清い。


そしてこの悪戯っ子な可愛さをココナに感じたのは二度目だ。

確か出身地を自虐的に紹介してくれたときだったな。今ココナはこの棒でドアに細工したのがバレて照れたのか、恥ずかしそうだけどそれを隠そうとしない、あのときと同じ可愛さを余すところなく披露してくれた。この笑顔はココナの『てへぺろ』なの?

可愛い子が悪戯したりちょっと悪ぶると可愛さが増すという設定なのだな、承知!

「はは。悪いなぁ、カヲルンに見つかったら叱られるよ」

俺は可愛さ余ってそう言った。

と、途端に想像以上に怯えたようなココナ、

「あ、いや、そんなに怒んないと思う、てか俺は言わないし」

俺は慌てた、だってこんなに怯えるなんて!

ハーデス・カヲルは想像しただけで人を怯えさせるんだな、これも合点承知!

「うん。ありがと」

半泣きなの?

ココナが困った顔したまま笑う。

ああ、これ……この顔はいかんわぁ、尊さがえぐすぎる。

俺でもわかる、この顔はどSをフォローアップさせる表情だ。雄殺しでもあるけど、でもそれは相手次第。俺みたいな愛犬程度な雄相手には、守ってあげたくなる能力を高める効果。けどね、仁科くんみたいなどS相手なら、もっと苛め抜かれてしまうよ、間違いない。

やだやめて――守って!

ココナは自分を守って!

って、俺には守る自信がないというあたりがケロべロスなのに番犬向きじゃないことの証し。

それにしても。

この笑い方、俺と似ている……かもと感じている。

厚かましいけれど親近感がわいてしょうがないんだ。俺のは可愛さなんて添付されないけどね。似ていると、そんな風に感じるから、だからなんとなくわかるんだよな、笑っている理由も。

嬉しいならもっと嬉しそうに笑うものだ、そう言われることが多かった。そして、嬉しくも楽しくもないなら笑うべきではない、とも。いわゆる愛想笑いだと受け取られることが多い俺。俺はただ困ってしまってどんな表情をしていいのかわからなくて、とにかくその場をやり過ごしたくて、笑うことを選ぶしかなかったんだけどな。

困ったときに笑ってしまうのは罪ですか?

ココナもさっきは困ったんだろうな、きっとそう……なんて勝手な判定をくだして似ていると思ったんだ。

「雪見ると懐かしくて。こっちはあまり降らないから」

ココナは俺のだんまりを気遣ったのか話しかけてくれた。

あの時もそうだったよな、ココナが沈黙をつついてくれたっけ。

「雪、いいよね」

と俺。


あああ、これも、でじゃぶ――っ?


なんだなんだこの会話、このシチュエーション、少女漫画だ、間違いない!

純愛しかないやつ!

この俺に純愛など不要だが、だがしか――し!

言わせてくれ、この子飼ってもいいですか?


はぁ……やっぱいいわぁココナ、癒されるぅ。俺、昇天しそう。と、そうだ、癒されている場合ではなかった、と今我に返る俺。

「ココナ、春のイベントの話知ってる?」

そうそう訊かなきゃならんぞ、と訊いた。

だが瞬時、俺はそんなはずはないと気づき即座に言い直そうとした。すると、

「うん、カヲルから」

あハ……時が止まった。

不思議だった。

さっき俺は仁科くんから聞いたばかりだ、ならココナは俺より前に知っていた、ということになる。そして、俺の飼い主様を、冥府の神を、今ここで「カヲル」と呼んだ。あの仁科くんのことを呼び捨てた。


ちょちょちょちょちょと待てよ、時系列が乱れた……のか?


年末と温泉撮影のことはさっき発表があって、リョウタと俺はメンバーへの発表前に知っていた、が口止め条件アリ。もちのろん、誰にも漏らしちゃいない。春イベの件はさっき仁科くんから聞いた。これは発表の後すぐだった。リョウタもまだ知らないはず。俺が眺めていた景色からそれはほぼ確実なはずだ。

で、俺は俺で、仁科くんが去ってすぐにココナを探してここへ来た。

ああ……そういえば仁科くんは俺と話した後、どこへ行った?

いやそれよりも、年末の発表の前には、ココナは知っていたかもしれないんだよな?

「アツミ?」

ココナが俺の名を呼んだ。

「ココナ、いつ知ったの?」

なぜか俺は、いつもの俺らしくなく、即座にココナへ尋ねた。

どうしてだろう、やけに気を引くんだこのことが。

「いつ……って、アツミの前よ」

う、なんだこの気味悪さ。

どうしてココナは仁科くんが俺へ話したタイミングを知っているんだ?

「カヲルが今からアツミへ話してくるねって、そう言ったの」

「そ、そう」

薄気味悪い、ふるっと、寒気を感じた。

俺が一番に重要なことを知る立場でないことは心得ているし、仁科くんが俺のことを特別視しているわけでもないから、俺が一番最初に知っているはずだとは思わない。そう思うこと自体が超常現象並みにおかしいから。

だけどね。

今日一日の新しいこと尽くしの急展開な事情を、俺よりも先にココナが知っているという事実がやんわりキモい。だって、ココナを全く見かけていなかったから。

雪の女王のときもどヤンキー海賊が来たときもいなかった……はず、さっきの発表のときさえもだよ。

それにこの呼び方。

カフェ「ダバンティ」ではニックネームで呼び合うことが決まっている。で、年功序列ではなく、入店順が序列を示す。そして、その序列は恐ろしいほどカメリエーレとしてのスキルに見合ったものになっているんだ。

だから、後の者は先の者を自然に尊敬するし、優劣をわきまえるようになる。それが、呼び方に表れるんだ。

中でもハーデス・カヲルこと仁科郁は、最も優秀で最も人気があり、オーナーであるマスターの三村さんでさえ付き従う存在。この店の全ての権限を委ねられている。

そんな存在のことを、俺らみたいなシルバーペア以下のメンバーがニックネームで呼ぶというルールに沿って呼ぶならばどうすればいいのか。

既に呼ばれている名前で呼ぶ、先人に倣うこと。

これが一番無難だし、正しいだろうと思えるね、だって自然にそうなってきたのだし。三番手のリョウタは仁科くんのことを「カヲルン」と呼んだ、以来、誰もがそれを真似たんだ、と思っていたんだ俺は。そう、それが正しいと思うとおりに。

そして俺の知る限り、他のメンバーが仁科くんのことを「カヲルン」という呼び名以外で呼んでいるのを知らない。俺だけだと思っていた、俺は「カヲルくん」と呼んでしまうことを笑われたことがあるから。だけど、今、その初めての「カヲルン」という呼び名以外で呼んでいる存在を発見した。

「私なんだか余計なことを話しちゃったのかな」

頼りなく囁かれるセリフとは裏腹に、ココナは笑顔だった。

ああ、かわええ……ん?

「アツミが困った顔するのはじめて見た」

ココナは右手を軽く握ったまま胸元にあてた。

そしてすこし頭を前へ傾けて、その反動に従うように元の姿勢に戻った、スローモーションで。


嗚呼!

史上最強であろうこの微笑みの主は、もしや女神様では?


なんでこうも俺の厳しい可愛いコンテスト基準を超えてくるんだよココナは!

くにゃっと目が垂れると、同時に唇が「む」と「め」の間のかたちになる。自然な色艶、カサつかない程度の乾いた唇が爽やかだ。

色気づいた女にありがちな濡れ濡れたっぷりのリップなど不要だ、無垢な女神の唇は渇いているのが正統なのだ。

そうだ、もやは女神の領域だ、可愛い代名詞とされる妖精とか天使とか、フン!

貴様らの可愛いPRなどたかが知れておる!

可愛いだと?

片腹痛いわ!


ああ、誰かこの女神の名前教えてくだされぃ。

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