第5話 メニューにない隠し味

ハルトに連れられて歩いた先は、路地裏の古いビル。重い木製のドアを開けると、デジタルな通知音の代わりに、焙煎された豆の香ばしい香りと、小さなスピーカーから流れる古いジャズが二人を包み込みました。


「いらっしゃい」

店主はタブレット端末ではなく、布のダスターでカップを磨きながら、短く会釈をしました。


二人は、使い込まれて角が丸くなった革張りのソファに腰を下ろします。


「ここ、スマートリングのGPSだと反応しない場所なんだ。……だから、誰にも邪魔されない」


ハルトが少し誇らしげに言うと、ミナはくすりと笑いました。

「本当に。通知が来ないことが、こんなに贅沢だなんて思わなかったわ」


やがて運ばれてきたのは、厚手の陶器のカップに注がれた深い琥珀色のコーヒー。そして、おまけのように添えられた、形が不揃いの手作りクッキー。


「ミナさん」 ハルトが真剣な眼差しで、彼女を見つめました。


「僕は、君の心拍数を知ることはできない。君が今日何を食べて、何歩歩いたのかも、アプリを開かなければわからない。……でも、だからこそ、君をずっと見ていたいんだ。君が今、どんな顔をして笑うのか、そのコーヒーを一口飲んでどう感じるのか……自分の目と耳で、確かめ続けたい」


その言葉には、倫也が使っていた「予測アルゴリズム」のような効率性はありません。むしろ、果てしなく手間の掛かる、非効率な「告白」でした。


ミナは、一口コーヒーを啜りました。 少し苦くて、後からじんわりと甘みが広がる。その複雑な味わいが、今の自分の心のようです。


「ハルト君。……コーヒー、すごく美味しい」


ミナは、テーブルの上に置かれたハルトの手に、自らそっと自分の手を重ねました。


「私の心拍数、知りたい?……今ね、さっきよりずっと早くなってるの。でも、これはシステムのエラーじゃないわ。あなたが私の名前を呼んでくれたから起こった、私だけの『正解』よ」


ハルトは一瞬、息を呑むように目を見開きました。 次の瞬間、彼は愛おしくてたまらないというように、ミナの手を両手で優しく包み込み、ゆっくりと自分の胸元へ引き寄せました。


「聞こえる?……僕も、同じだよ」


トクン、トクン、と。 厚いコート越しでも伝わってくる、力強く、速い鼓動。


それは、サーバーに記録されることのない、たった二人のためのラブソング。 窓の外では、雪が静かに降り始めていました。 デジタルな世界がどれほど速く、冷たく変化しようとも、この小さなカフェの、この一角だけは、世界で一番不器用で、一番温かな熱量に満たされていました。


「……ねえ、ハルト君。次の休み、どこに行こうか?」

「そうだね。……とりあえず、充電器は家に置いていこう」


二人は顔を見合わせ、声を立てて笑いました。 明日へのナビゲーションなんていらない。 不確かな未来を、二人の足で、迷いながら歩いていく。

それこそが、ミナがようやく手に入れた、本当の「人生」でした。


   Finale

▶▶▶

【作風:方向性思案中】


詠み専からの執筆の若輩者です。

これまで作品の拝読と我流イラスト生成がメインでした。

御意見:感想がの御指摘が閃きやヒントに繋がります。


  宜しくお願いします。



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鋼の指輪と、僕らの不一致 比絽斗 @motive038

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