第二話
入学式が終わり、新入生たちは各教室へ移動することになった。
私もSAのナビに従って1-A教室へ向かおうとしたけど――その前にどうしてもトイレに行きたくなった。さっきから我慢してたんだけど、もう限界。
「あー、タイミング悪いなぁ」
私は、SAに『最寄りのトイレ』を検索させた。
『第一体育館 裏手トイレまで徒歩2分。案内を開始します』
「おっ、意外と近いじゃん。良かったー」
ナビに従って歩き出す。画面上に表示される矢印に従って、体育館の裏手へ向かう。
体育館の裏手は、意外と人気がなかった。
新しい校舎とは対照的に、古い建物が残ってる。おそらく、学校が拡張される前からあった施設なんだろう。壁には蔦が這い、ペンキも剥げかけている。なんだか、ちょっと不気味だ。
非常階段の脇を通り過ぎようとした時――。
「……っ、はぁ、はぁ……」
微かな声が聞こえた。
息の音が、細い。
細いのに、やけに大きく聞こえる。
私は足を止めた。
「……え?」
非常階段の陰に、人影がある。
制服を乱して蹲る、一人の少女。
肩が激しく上下して、胸元を押さえる指が強張っている。髪が頬に貼りついて、額に汗がにじんでいた。
艶やかな黒髪。
さっきまで壇上で完璧な挨拶をしていた――天川麗奈だった。
「うそ……」
あんなに“完璧”に見えた人が。
こんな場所で、こんなふうに、息もできずに。
私は駆け寄った。靴音が、静かな裏庭にコツコツと響く。自分の足音がうるさく感じるくらい、周りが静かだった。
「あの、大丈夫ですか」
声をかけた瞬間。
「来ないで……」
麗奈が、かすれた声で言った。
拒絶、というより。
“お願いだから、今の私を見ないで”っていう、必死な祈りみたいな声。
「見ないで……」
彼女の指先が、ぎゅっと制服の胸元を掴む。
息を吸いたいのに吸えない。吐きたいのに吐けない。呼吸だけが迷子になっている。
過呼吸だ。
「でも、苦しそうです。保健室に――」
私が言いかけると、麗奈は顔を伏せたまま首を横に振った。
「……だめ。……ここで……」
声が、震える。
凛とした生徒会長の声じゃない。弱々しくて、今にも切れそうな糸みたいな声。
私は一瞬だけ迷った。
(救急車? 保健室? でも……今それをしたら、この人、もっと怖くなる)
それに、ここは体育館の裏だ。
近くには監視カメラもある。ドローンだって飛んでる。大ごとになったら、絶対に噂になる。
――彼女は、それが嫌なんだ。
「分かりました。じゃあ、ここで……一緒に落ち着きましょう」
私は彼女の隣にしゃがみ込んだ。
コンクリートの冷たさが膝に伝わる。
「大丈夫です。深呼吸してください。ゆっくりでいいですから」
そっと背中に触れる。
制服越しでも分かる。細い背中が、小刻みに震えている。
体温はあるのに、どこか冷えている感じがした。汗で湿った布が、わずかに指に吸い付く。
麗奈の肩が、びくっと跳ねた。
触れられるのが怖いのかもしれない。近づかれるのが、怖いのかもしれない。
でも私は、手を離さなかった。
「吸って、吐いて。ほら、私と一緒に」
私はわざと、少し大げさに息を吸う。
ゆっくり、吐く。
「……すぅ……はぁ」
彼女の呼吸はまだ速い。浅い。乱れてる。
それでも、私の声に合わせようとしてくれているのが分かった。
私は背中をさする。円を描くみたいに、ゆっくり。
そうすると、彼女の呼吸の振動が、手のひらに伝わってくる。
(大丈夫。ここにいる。逃げない)
「そうです、上手ですよ。焦らなくて大丈夫です」
できるだけ落ち着いた声で言った。
本当は、私も少し焦ってた。
生徒会長が過呼吸なんて、たぶん普通じゃない。どうすればいいんだろう。やっぱり救急車を呼ぶべき?
でも――今は、目の前の彼女の息を取り戻すことが先だ。
何回か繰り返すうちに。
麗奈の肩の動きが、ほんの少しだけ小さくなった。
息が、“音”じゃなくて、“呼吸”になっていく。
「……っ、は……」
ちゃんと吸えた。
ちゃんと吐けた。
数分後、彼女の呼吸は正常に戻った。
麗奈が、ゆっくりと顔を上げ――私を見た。
濡れたような黒い瞳。
長い睫毛が、わずかに震えている。呼吸が落ち着いたのに、まだ体は“怖い”の余韻を抱えたままみたいだった。
「……あなたは?」
「宇佐美陽菜です。今日入学したばかりの一年生で」
私は少し緊張しながら答えた。だって、相手は生徒会長だ。
しかも、あの天川グループの娘。こんな至近距離で話すなんて、思ってもみなかった。
「生徒会長、さっきの挨拶、すごく素敵でした」
「……」
麗奈は複雑な表情を浮かべ、顔を背けた。横顔が、日に照らされて白く輝いている。
「こんな姿、本当は誰にも見せたくなかった……」
「大丈夫です、誰にも言いませんから」
私は真剣な表情で言った。
「それに、誰だって完璧じゃいられないと思います。私なんて、入学式で既にトイレ探して迷子になりかけましたし」
「……っ」
彼女の肩が、小さく震えた。
笑ってるのか、泣いてるのか、分からなかった。
でも、さっきまで張りつめていた空気が、少しだけほどけた気がした。
「あの、保健室に行きますか? それとも、もう少しここで休みますか?」
「……ここで、もう少しだけ」
か細い声。まるで、消え入りそうな声。
「分かりました。じゃあ、私も付き合います」
私は隣に座り込んだ。冷たいコンクリートの感触が、制服のスカート越しに伝わってくる。
スマホが振動した。SAからの通知だ。
『宇佐美陽菜さん、1-A教室でのオリエンテーション開始まで残り15分です。移動を開始してください』
私は通知を無視した。
今は、それどころじゃない。
二人とも、しばらく黙っていた。
非常階段の上から、春の風が吹き降りてくる。桜の花びらが一枚、二枚と舞い落ちた。ひらひらと、まるで踊るように。花びらの一つが、麗奈の膝の上に落ちる。
「……ありがとう。あの、お礼は10万ポイントでいいでしょうか?」
麗奈が、ぽつりと呟いた。
「え?どういうこと?」
「少なかったら、20万でも……」
「いやいや、そうじゃなくって! 別にポイントが欲しくて助けたわけじゃないから」
私は、スマホで送金操作をしようとしていた麗奈を手で制した。麗奈が目を丸くしてこちらを見ている。
「あなたみたいな人、初めてです。なにも見返りを求めない人」
麗奈は私を見た。その瞳は、どこか寂しそうだった。深い、深い孤独が、そこには宿っている。
「……そう、ですか」
「ええ、私に近づいてくるのは、天川グループとコネを作りたいと画策している人ばかりですから」
私は、どう答えればいいか分からなかった。彼女が置かれている立場は、私には想像もつかない。
「でも、あなたは違った。ただ、助けてくれた」
麗奈の声は、さっきまでとは違って――温かかった。少しだけ、柔らかい響きがある。
「私、将来は天川グループを継がなきゃいけない。母も、周りの大人たちも、みんなそう期待してる。だから、完璧でいなきゃいけない。成績も、品行も、全部」
「……しんどいですね」
私は素直に言った。他に言葉が見つからなかった。
「ええ、しんどい」
麗奈は小さく笑った。
「でも、それが私の役割だから」
その笑顔は、壇上での完璧な微笑みとは違う――本物の、少女らしい笑顔だった。少しだけ寂しげで、少しだけ儚い笑顔。
私の胸が、不思議な感覚に包まれた。
「ねえ、宇佐美さん」
「はい」
麗奈は立ち上がり、制服の埃を払った。スカートについた桜の花びらが、ひらりと舞い落ちる。
「今日のこと、誰にも言わないで」
「もちろんです」
「それから――」
麗奈は少し躊躇ってから、続けた。
「また、会えますか」
「え?」
「あなたと、また話がしたいです」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
生徒会長が、一年生の私と、また会いたいと言ってくれている。
「はい、もちろんです」
私は少し大きめの声で答えてしまった。思わず、声が弾んでしまう。
「……ふふ」
麗奈は再び微笑んだ。
そして、踵を返して歩き出した。背筋を伸ばした、凛とした歩き方。もう、さっきまでの弱々しい姿は微塵も感じられない。
「じゃあ、また」
「はい、また」
私は慌ててお辞儀をした。
麗奈の背中が、非常階段の向こうに消えていく。黒髪が、風に揺れている。
私は一人、その場に残された。
「……すごい人だったな」
私は呟いた。完璧な生徒会長と、脆い少女。
二つの顔を持つ彼女に、私は少しだけ興味を持ち始めていた。
いや――もしかしたら、「少しだけ」じゃないかもしれない。胸の奥が、まだ温かい。さっき触れた彼女の背中の温もりが、まだ手のひらに残っている気がする。
スマホが再び振動した。
『宇佐美陽菜さん、オリエンテーション開始まで残り5分です。至急移動してください!』
「あ、ヤバ」
私は慌てて立ち上がり、走り出した。
桜の花びらが、風に舞って追いかけてくる。ひらひらと、まるで私を祝福してくれているみたいに。
春の日差しが、キラキラと眩しい。
この時はまだ、これが全ての始まりだなんて――思いもしなかった。
でも、確かなことが一つだけあった。
私と麗奈の間に生まれた「秘密」。
それは、誰にも知られてはいけない――二人だけの、特別なものだった。
その日の夜、寮の自室で、私はベッドに寝転がっていた。
「はぁ……疲れたー」
入学式、教科書配布、オリエンテーション、校内設備説明。寮のルール説明と、怒涛の一日だった。頭の中が情報でパンパンだ。もう、何も考えたくない。
部屋は6畳ワンルーム。ベッド、机、クローゼット、小さなキッチンと浴室。最低限の設備は揃ってるけど、決して広くはない。壁は白く、装飾もシンプル。まるでビジネスホテルの一室みたいだ。
私は天井を見上げながら呟いた。
でも、私にはこの部屋で十分だ。狭いけど、一人で過ごすには困らない。
スマホが振動する。お母さんからのメッセージだ。
『陽菜、入学式お疲れ様。 初日はどうだった?』
少し考えてから、返信した。
『うん、めっちゃ楽しかった。この学校広すぎて迷子になりそうだけど笑』
『SAのナビ、ちゃんと使ってる?』
『使ってるよー めっちゃ便利』
『それは良かった😊 何か気になることあったら、いつでも教えてね』
私はスマホを置いて、窓から外を眺めた。パトロールドローンがあちこち浮遊しているのが見える。夜になっても、AIの監視は続いている。そのうちの1台が窓のすぐ近くまで飛んできて、慌ててカーテンを閉めた。
SAシステムは、寮の部屋の中まで監視してくるつもりなのか。恐ろしい。
「プライバシーは保護されます」って寮の説明書には書いてあったけど、本当かな。まさか部屋の中にもカメラ、ないよね?
念のため、室内を点検してみるけど、今のところカメラらしきものは見当たらないけど……。小型化されてたら、見つけられないかもしれない。
この学校では何でも全部、データ化されて、どこかのサーバーに蓄積されていく。私の一日の行動も、全部記録されてるんだろう。「宇佐美陽菜、入学式後にトイレへ向かう。体育館裏手で15分間滞在。オリエンテーション開始5分前に教室到着」とか。
「……まあ、悪いことしなきゃ大丈夫でしょ」
私は小さく呟いた。
そこで、ふと思い出した。今日会った、生徒会長のこと。
あの完璧な天川麗奈が、人目のないところで過呼吸を起こしていたこと。
「見返りを求めない人、初めて」と言った、寂しそうな瞳。あの瞳には、どんな想いが込められていたんだろう。
「……会長も、大変なんだろうな」
天川グループの娘で、生徒会長で、成績トップで、SPカンスト(という、噂)。
周りからの期待とプレッシャーは、想像を絶するものがあるんだろう。常に「完璧」でいることを求められる。一度も失敗が許されない。そんな環境で生きていくのは、どれだけ辛いことか。
しかも、将来は事業を継ぐことが決まってる。
自分の人生を、自分で決められない。
それって、どんな気持ちなんだろう。
そんな彼女が、「また会いたい」と言ってくれた。
なんでだろう。
その言葉が、妙に心に残っている。胸の奥が、じんわりと温かい。
「……明日も会えるかな」
私は小さく呟いて、窓の外を見た。
窓の外では、夜景が煌々と輝いている。
ショッピングモールのネオン、映画館の看板、観覧車のライトアップ。カラフルな光が、夜空を彩っている。
まるで、眠らない街みたいだ。
キラキラしてて、ちょっとワクワクする。まるで遊園地みたいだ。こんな学校、他にないだろうな。
そして、その街の至る所に設置された監視カメラの赤いランプが、まるで無数の目のように、この世界を見つめている。瞬きもせずに、ずっと、ずっと。
私は、この学校で何を見ることになるんだろう。
そして、生徒会長とは――どんな関係になっていくんだろう。
まだ何も分からない。
でも、なんだか楽しみだ。不思議と、ワクワクしている。
あの非常階段の陰で完璧な生徒会長が見せた、本当の顔。
私は、それを守りたいと思った。
なぜかは分からない。
でも、そう思った。彼女の秘密を、誰にも知られたくない。あの弱々しい姿も、寂しそうな瞳も、全部。それは、私だけが知っている特別なもの。
スマホが最後の通知を表示した。
『本日のSP収支:+150,000pt(入学祝い金)
現在の保有SP:150,000pt
明日の予定:8時30分 1-A教室 ホームルーム🌸』
私は通知を消して、スマホを枕元に置いた。
そして、静かに目を閉じた。
長い一日が、終わった。明日は、どんな一日になるんだろう。
私は通知を消して、スマホを枕元に置いた。
そして、静かに目を閉じた。
長い一日が、終わった。明日は、どんな一日になるんだろう。
また、会えるかな。
そんなことを考えながら、意識が遠のいていく――その瞬間。
ピピッ。
小さな電子音。
寝ぼけた頭に、妙にクリアに刺さった。
「……ん?」
目を開けて、枕元のスマホに手を伸ばす。
画面が、薄暗い部屋の中で白く光った。
SAの通知。
『【注意】本日、特定対象との接触により「対人感情スコア」が変動しました』
「……は?」
寝起きの声が、間抜けに漏れる。
続けて、もう一件。
ピピピッ。
『対象候補:天川麗奈
推定感情:親近感/興味
継続観測を開始します』
「……継続観測って、なに……」
私は思わず、布団を鼻まで引き上げた。
いや、別に悪いことしてないし? 助けただけだし? ただの人助けだし?
なのに。
画面の一番下に、さらっと追い打ちみたいな一文が表示される。
『※一定条件を満たした場合、SP課金(恋愛関連コスト)が発生する可能性があります』
「……可能性じゃなくて、やめてほしいんだけど……!」
小声でツッコミを入れたところで、当然スマホは何も答えない。
部屋の外を飛ぶドローンの低い駆動音が、遠くでブーンと鳴った。
まるで、「見てるよ」と言われたみたいで、背中がぞわっとする。
私はスマホを裏返して、枕の下に押し込んだ。
「……明日、会えたら、会えたで……考えよ」
言い訳みたいに呟いて、今度こそ目を閉じる。
だけど瞼の裏には、あの黒い瞳が浮かんでくる。
そして――。
もし、また会ったら。
私は、またあの人の“息”に触れてしまう気がした。
藤が丘高校での、最初の夜が更けていった。
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