第2話 父の出府(ちちのしゅっぷ)
父・
公方様の急な
江戸市中および五街道は、連日の「下ぁにぃぃ、下に!」の声で溢れ返った。
大名行列というのは、大層なものである。
行列や人数などが、家格により、公儀から決められていた。
花坂の様な貧乏藩には、その負担は大変である。
という訳で、父は、いつもの事で、花坂からは船で出て、館山の南を回り浦賀水道から江戸湾に入って、六郷で上陸して、そこから東海道を行列して来るのであった。
本隊とは別の、江戸出府の家臣らや荷駄などは、
という訳で、正賢は、他の者らよりも先んじて飯田橋の花坂家江戸屋敷に入ると、まずは、広間にて
上座上段に着座した正賢に対して、江戸家老の沢辺
「江戸家老・沢辺
父は、評定の場では、弓削之介の正式な名乗り「花坂民部少輔徳賢」を用いる。
「ははっ!」
と答える沢辺に応じて、いつもの通りに上座に座していた祐筆が、急いで膝を進めて、
「お屋形様!」
と、父に、膝元の書面を示した。
「ん! んん?」
正賢は、目をパチクリさせて、膝元の書面を取り上げた。
書面の1枚目には『議題条々』と記されている。
「まず、2枚目をご
沢辺の声に、広間の重臣たちは、慣れた調子で、
正賢も、その様子に
「先島花坂との婚儀に備えましたる予算の条々、および、取り止めに伴いまする費用の条々にございまする。
江戸で用立てる目論見でおりました駒姫様のお衣装はじめ嫁入り道具の条々、駒姫様のために発注しましたる奥御殿の改装の条々、駒姫様のために雇い入れましたる予定でおりました侍女の給金の条々、および、婚儀の日の食膳の条々、招待のお客様方への引出物の条々にございまする。
この内、侍女の給金につきましては、出費が完全に消滅、食膳の費用につきましては、急な事情にてと先方も承知し解約になり、違約金も求められませんでした。
ただし、お衣装および奥御殿の改装、引出物につきましては、発注先業者が、既に資材、職人等の発注を済ませしもののありとて、違約金を求められ、損失となりましてございまする。
また、婚儀へのご招待状の発送先に対して、取り止めの連絡が、新たな経費として発生いたしておりまする。
全て合わせて算出しましたるものが、記載の損失になりまする」
沢辺の説明に、正賢は、書類を見つめて、
「う……、ううむ!」
とうなっている。
「抑えたのは分かるが、やはり、痛いの、この無為の出費は!」
「ははっ!」
沢辺と弓削之介、改めて頭を低くする。
「しかしながら、今回の事は、公方様のご急逝という不測の事態によるものじゃ! おぬしら二人を責めるは不適当。両名の責については不問といたす。
沢辺! 民部少輔! 定位置に着座いたせ!」
「はっ!」
沢辺と弓削之介は、立って、末席から移動した。
沢辺は、上座下段、正賢の左前へ、弓削之介は、上座上段、正賢の左脇に着いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
沢辺が、家老として議事を進める。
「続いて、二つ目の議題!」
「ま、待て!」
正賢が手を上げて止めた。
家臣らは、慣れた様子で手元の書類を
「これか!? 勘定奉行の
と、
「は! 恐れながら」
「それについては!」
弓削之介が声を挙げた。
「それがしの命にござり――」
「おぬしか!」
正賢が、弓削之介を睨んだ!
「ははっ!」
弓削之介が頭を下げるのに、
「恐れながら!」
沢辺が脇から口を挟んだ。
「それにつきましては、ご世子様のご発案ながら、それがしも認可いたしてございまする!」
「んん?」
正賢は、怪訝な顔で沢辺を見た。
「ん……。で? これは、要るものなのか?」
「恐れながら!」
沢辺が説明する。
「すこぶる! 評定が盛んになり、また効率よく進められましてございまする」
と言うと、座の一同が、無言でうなずいて見せる。
正賢は、その様子も怪訝な顔で眺めていたが、
「んぬぬ! しかし、紙は高かろう?」
「それにつきまして!」
弓削之介が、一枚の紙を、正賢の膝元に進めた。
「近頃、この様な『わら半紙』なる紙が市中に出回りまして、こちらを用いれば、紙の費用を半減出来まする!」
「んんん?」
正賢が、それを拾い上げて眺める。
褐色がかったざらざらした紙である。
「ひどく粗末な紙じゃの?」
正賢が、眉をひそめた。
「市中には、さらに質の落ちる『
「いや……」
正賢は、顔をしかめている。
「余りに粗末なものはどうかと思うぞ……」
と、つぶやいて、ハッとした様に視線を上げた。
「弓削之介! それは、何やつの発案じゃ!」
「は?」
呼び掛けが、通称の「弓削之介」になってしまっている。
「その安い紙を見つけて来たのは誰じゃと聞いておる!」
「……、
「やはりかっ!」
正賢は、吠えた。
「で、その敬三郎は、どこじゃ! この場に見えぬが?」
「はっ!」
弓削之介は答えた。
「敬三郎は、公儀・小石川薬草園に下役としての籍を持ちまして、今は、そちらに出仕中にございまする」
「ちっ!」
正賢は、いらついた様子で舌を鳴らした。
「では、夜にでもわしの元に顔を出させよ!」
「それが、敬三郎、時に、夜中も小石川に詰めておる事がござりまして、今夜はぁ……」
「ああ、もう分かった!!」
正賢は、あきれた様子で声を挙げた。
「おぬしと言い、敬三郎と言い、相変わらずのやりたい放題じゃの! まあ、分かった。敬三郎に伝えよ! これよりは、わしのお
「それは、」
弓削之介は、ここぞとツッコんだ。
「敬三郎に、藩士としての身分をお与え下されるという事で?」
「そう申したが?
「恐れ入りまする、父上!」
頭を下げた。
(もっとも、本人が喜ぶかどうかは、知らぬがの?)
弓削之介は、腹の中でうそぶいた。
弓削之介の見るところ、敬三郎には、どうも、「藩士」の身分に格別の
~ 第3話に続く ~
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