第2話 ジブラルタル海峡の夕焼け

 ヴィクターはいつも姿勢が良かった。

 今から七十年と少し前、スペインでは「ヴィクトル」と名乗った。


 その五十年後、手紙が届いた。べニート・デルガドが亡くなったらしい。彼が二十歳の時から五年ほど一緒に暮らしていた。彼には別れてから会ってはいない。


 大戦後、英領ジブラルタルに赴任する陸軍の准将に同行したヴィクトルは、その直前のしがらみから身を隠していた。老化しない体を持っていては、人の中で問題なく暮らすのは五年が限界だろう。長い人生の中で育ててきた沢山の支援者もいるので、困る事はない。ほとぼりが冷めたら、また戻るか、どこかへ移動するか。


 英領ジブラルタルは、地中海の入り口を対岸のモロッコと共に見守る、半島の先にある小さな、しかし大事なイギリスの軍事拠点。半島の北側は内戦が終わり、フランコ政権の圧政が続くスペインが広がる。スペイン側の国境の街は荒れていたが、町外れの小高い丘の上、乾いた埃が舞う細い道路の突き当たりの白壁の家では、大戦中も内戦中も変わらない日々が続いていた。


 真夏の昼間に山の上の史跡を目指して登ってきたヴィクトルは、意識を失いかけていた。いくら濃い血の始祖の系譜で日光如き物ともしないヴァンパイアとはいえ、遮る物のない斜面を照らし続ける真夏の地中海の太陽は激烈だった。倒れ込んだヴィクトルを救ったのが若きベニートだった。


 ベニートの家は当時、電気もガスも水道もなかった。カンテラと蝋燭、竈門、幸にも井戸と、雨水の樽があるだけだった。ヴィクトルの生まれた六百年前と変わらない、懐かしい生活だ。

 二人はすぐに抜き差しならない関係になった。それは、ヴィクトルの危うい魅力と、ベニートの人恋しさもあったかも知れない。大戦中の流行病で両親を亡くしたベニートはずっと一人暮らしだった。

 カソリックの信仰の根付いたこの地で、ベニートはヴィクトルのことを「肺病の従兄弟を療養させている」ことにした。人を遠避けるのに恰度な言い訳は、ヴィクトルの見た目の青白さで信憑性を増していた。

 ヴィクトルは現代では人工血液を使っているが、当時は生の血が必要で、毎日少しずつベニートに貰っていた。

 

 月に一度、ジブラルタル領内の准将の所に顔を出す。情事の合間に本国の情勢や、准将に異動の話が出ていないかを確認した後、准将の手首からコップ一杯ほどの血を貰う。ヴィクトルには物語のヴァンパイアのような牙はないが、相手の首や手首に口を付けて、舌先をナイフのように尖らせて皮膚を裂き、血を飲み込んで、唇で傷跡を閉じたらもう跡形もなく塞がる。この時、相手は痛みはなく、不思議な陶酔があるらしい。

 眠った准将を後に、身支度をして早朝検問所が開くと同時に通って帰る。スペイン側の入り口に待っているベニートを見つけるとホッとする。


 ベニートは口数が少ない。話す時もぽつりぽつり、本当に必要なことしか話さなかった。二人で、一年かけてオリーブ畑と葡萄畑の世話をして、オリーブオイルとワインを作る。主に自家消費で余った分は現金化する。

 ヴィクトルもワインは飲む事ができる。昔は赤白二種類作っていたのに、面倒になったベニートが二種類の葡萄を一緒くたにしたロゼがなぜか美味しい。若いうちは歯がキシキシするけど。


 二人は一日の終わりに、屋根の上に上がってワインを飲みながら夕焼けを眺める。ヴィクトルは長椅子に座ったベニートの腹の上にもたれながら。ベニートはヤギのチーズがあるときはそれをつまみながら。なければ、ワインだけ。

 

 夕陽が海面に反射してキラキラ金色に光る。眼下の白壁の家々は紅色に染まる。モロッコ側の山々も茜色に霞む。日が沈むと空の色はどんどん白んで行き、群青色の夜が降りてきて、地平に近い空は光を残した深い朱色がどんどん消えて全部が群青色になる。


 灯したカンテラを持って、二人一緒に階段を降りる。優しい光が世界に一箇所しかない愛を照らす。


 夜、体を合わせながら、ぶっきらぼうなベニートがヴィクトルを、この時は優しく「ヴィト」と呼ぶ。ヴィクトルはベニートを「ベニ」と返す……優しいベニ、何も求めず、何も問わないベニ。ベニートが恐れを持っているのを知っている。教義に反する二人の関係、教義から外れたヴァンパイアのヴィクトル。神様、もうすぐ優しいベニをお返しします。そうしたら、ベニを元のレールの上に戻してください。


 何も残さないつもりだった。後でベニートがヴィクトルを思い出す様な物は。


 五年になろうとするところで准将の本国帰還が決まった。


 別れを告げたくない。

 ベニートが麓の街に用を足しに出かけた隙に家を出ることにした。


 ベニートが出かけてしばらくしてから、ヴィクトルは家を出た。ぐるりと景色を目に焼き付けて、ゆっくりと街に向かった。ベニートと鉢合わせしないように賑やかな街中を避けて、英領ジブラルタルの検問まで来た。IDを出そうとポケットを探ると、農作業中に埃や手に付いた樹液を拭うようにベニートがくれた布切れが入っていた。自分で入れた覚えはない。


「ベニート……」


 そこからはある一つの事を心から切り離すようにして暮らしてきた。


 インターフォンが鳴る。心が引き戻される。出てみると、べニート・デルカド関連の窓口を頼んでいた者からの荷物が届いた。同封の手紙には、読み書きの出来ないべニートの奥さんから聞き取ったことが書いてあった。家族写真も同封されていた。懐かしい白壁の家の前で子供達と孫達と微笑むベニート。若い頃の面影がある。


 ――――ヴィクトル様、ベニートは先日、屋上の長椅子でモロッコの山々を眺めながら息を引き取りました。最後の年の自家製ワインを贈らせてください。

 夫ベニートがお祭りの時に当地の方言で万歳ヴィトーという時、嬉しそうな悲しそうな顔をしておりましたが、あなた様を思い出していたような気がしてなりません。

 ベニートを人の世に返してくださって有り難うございました。今は神の御元で笑い暮らしていると思います。

 どうか、あなた様もお身体にお気をつけて、健やかにお過ごしください。――――


 ベニートも文字を知らなかった。それなのに沢山のことを知っていた。


 ヴィクトルは何も残さないつもりで出てきたのに、名前と心を残してきたのを知った。


 この日は全部の予定をキャンセルして、月を見ながらワインを飲むほかはなかった。

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姿勢の良いヴィクター 雉 るし @kiji-rusi

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