第10話 幕間「或る日の疑問」
「にいさまにいさま! シェルにいさまっ!」
悲嘆の色を翡翠の双眸に滲ませ、少女が喧騒を引き連れてぱたぱたと駆け寄ってくる。
「わたくし……シェルにいさまの、恋人になれないって、本当?」
胸に飛び込んできた妹姫は、小動物のようにぐいぐいと頭を押し付ける。
「唐突にどうした?」
「だって、シェルにいさまはエリザに魅了されたままだから、絶対に無理だってディルにいさまが」
「……」
まだ、ディエルのヤツはそんな事を言っているのか。
シェイルは大きく息を吐いて、ぼろぼろっと大粒の涙で濡れる頬を、拭った。
「あんな大魔王のような男の話をまともに受けるなよ。そのように泣くな。特に弱みを握られたくない相手の前ではな」
「わたくし、にいさま達になら弱みを握られても平気よ」
顔を顰めて上を向き、涙が零れぬ様努力する小さな淑女に、敬意を表して、その目元にキスを落とした。
「ねえ、初恋って塩辛いの? 涙の味がするってにいさま達が言ってらしたわ。涙って塩辛いわよね」
機嫌を直して、焼き菓子を突付いていた妹姫が、頬に手を当て思い出したように言う。
今日のお題は「恋」なのか。どう答えたものか、とシェイルは内心で腕組みする。
下手な知識を与えると、また予測のつかない珍事を引き起こしかねない。
年の離れた妹姫に視線をやる。
淡茶の巻き毛に極上の翡翠を思わせる瞳。幼子から少女へと突入した天真爛漫な娘は、ぷくぷくとした幼児体系を気にする様子をみせたり、レースで装飾されたドレスよりも、侍女たちが身に着けているスッキリとした服装に焦がれたり、と、いつかは成るであろう大人の女性へと、着実に歩みを前に進めている。
シェイルの頭を、嬉しいような寂しいような思いが過ぎる。
あの時生まれたばかりの稚けき子だった少女が、こうして年を重ねていくという事は、同じだけ自分も――年を重ねているという現実を突きつけられる。
――こうして、何も出来ぬまま。
シェイルの時間は、夢の中でだけ、たびたび、あの稀有な体験をした二昼夜に引き戻されるのだが、ただそれだけだった。
見せられる夢の中での自分は、ただの傍観者で観察者である。
扉が音をたてて閉まり、ぼんやりと彫り込まれた紋様を眺めている所で、記憶は強制的に遮断される。嫌がらせのような夢の内容は、改変されることもなく、単純に事実だけを忠実に辿るのだ。
しかし、こうして改めて考えられると言うのは、良い傾向のような気がしていた。
年月が経てば鮮やかな色も、褪せる。煩雑な日常にまぎれて。
あの時の感情をなんと表現していいのか、シェイルには判らない。
自分は物語を吟じる詩人のような感性を持ち合わせていないし、どちらかというと帰結されたものの起因は何かと分析する方が得意な現実主義者である。正体不明の感傷は、幾重にも鎖にかけ、記憶の海に沈みこめてしまった方がいい。そろそろそういう時期なのだろう。
妹姫が成長するのと等しく、自分もまた、二十六歳になったのだから。
「そうだな、どちらかと云えば……苦い涙味、だな」
風がたおやかに流れる。
翡翠の瞳をきょとんとさせていた少女は納得したのか「ふうん」と答え、微笑んだ。
◇◇◇
あくる日、妹姫からの報告を受けた二人の王子は、密談の巣となっている叡智の塔のとある部屋で「どんだけ詩人なんだ!!」笑い転げた。
そして第二王子を評する新しい噂がひそやかに流れ出す。
いわく、愛しき記憶を編ませれば、かの愛の狩人・吟遊詩人セレノイユとアゼリアス聖王国第二王子ヴェイル・シェイル・ガーランド・エレ・ラ・アゼリアスに並ぶ者は居ないだろう、と。
どこかの世界のどこかの国。
彼らを真綿で包む日常は、変わらず平和である。
汚部屋はキャリアウーマンの勲章です!~2Kの自室が異世界と繋がったら、目の前に半裸(?)を叱るイケメン騎士様が現れ、期間限定の強制同居生活がはじまりました 水月A/miz @asc-miz
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