第8話 彼女の週末、彼の休暇⑧

 二昼夜。とはいったいいつまでなのか。

 この異邦人が扉をあけた瞬間は何時だっただろう。

 凛子があの時確認した時刻は、確か丑三つ時近かった気がする。

 おぼろげな記憶を辿る。


 日付を超え、月曜日がやってくるまでは、あと数時間という頃。

 一組の男女は開かれた扉の境界付近で、向かい合わせで座っていた。


 暖炉の炎でミネラルウォーターをなんとか沸かし、カップラーメンにお湯を注ぐ。やかんは予想どおり、下半分が真っ黒焦げになってしまった。三分時間を計り紙製の蓋を剥がす。湯気と共に漂う香りは、とても良い。ジャンクフードに、まともな食事という字面は似つかわしくないが、スープを一口飲んで、凛子は満足したように頷いた。


「乾燥させた麺に、乾燥させた野菜、乾燥させた肉と卵。粉末の粉がスープの元」


 躊躇していたシェイルがフォークで掻き混ぜていた容器を口に運ぶ。

 それから一言「美味いな」と神妙に漏らされた声音に、凛子は噴出してしまった。


 玄関先でカップラーメンをすする光景は、傍から見ると珍妙極まりない。

 どのタイミングで空間が切り離されるかまでは判らないため、万端を帰して、凛子とシェイルはそれぞれ自分の部屋側に扉を境に座り込んでいる。


 乾杯は、ラーメンに合いそうなスペイン産のすっきりとした白ワインだ。ラーメンにワインを合わせるのもどうかと思うが。


 もう一本のとっておきは、去年のバレンタインに購入したヴィラジェンマなので、デザート用。チョコレートが無いのが残念だが、焼いたマシュマロにココアパウダーをまぶせば、あの辛口の濃厚な赤ワインが、さらに引き立つような気がする。


 要は、気分が大事なのだ。

 殺風景な玄関口も、白いシーツを敷いてしまえば、それだけで硬質さを無くす。凛子の見る世界は、異国の――異世界の王子様然としたシェイルが典雅な所作でグラスを傾けていて、眼福である。酒のつまみには贅沢すぎるかもしれない。


 さきほど思い描いていたスウィーツを手早く作り、二本目のワインを空ける。

「リィンの世界の話をして欲しい」と請われ、まったく同様の意見を持っていた二人は、一つのお題に対し、お互い自分の知る限りの知識を披露することになった。確実にやってくるであろう、終わりの時に向けた時間つぶし。


「義務教育期間が九年か」

「だいたいがその上の高等学校に進学して、さらに大学で専門を学ぶよ。わたしの学生生活は義務教育に高校三年大学四年を足して十六年」

 凛子の言葉にシェイルは一瞬絶句したようだった。

「教育制度が整っているんだな」

「そうだねえ。文化かもな。日本の識字率って世界一だし。読み書きできない人のほうが珍しいよ」


「兵役とかはないのか?」

「無いよ」

 即答される答えに、シェイルは更に目を白黒させる。

「うちの国、戦争放棄してるの。半世紀ちょい前に大きな戦争があってさ、大負けしてそれ以来」

「無いって、攻め込まれたらどうするんだ」

「そこは一応、軍に似た組織の自衛隊ってヤツが自衛する筈。法律上では放棄しているから、自分たちからは仕掛けないってこと」

「暢気なのか、それだけ平和なのか」

「平和……と言っちゃあ平和かも。犯罪がまったく無いわけでは無いけど、そこら辺歩いていて身の危険は、あんまり感じたこと無いなあ。でも世界中ではいつもどこかで戦争が起こってるし、また動乱の世の中になる可能性は皆無じゃないと思うけど、正直、想像つかない」


 壁に寄りかかって、足を伸ばす肌は傷一つなく、陶器のように滑らかだ。凛子の話す社会的背景の中で生まれ育てば、このように伸びやかに育つと、その肌一つとっても証明している。シェイルは憧れにも似た気持ちを抱き、友好的に微笑む女を見る。


「俺の世界は、今少しごたついていて……だからこの扉がリィンの世界へと繋がったんだろう」

「戦争中?」

「まだ、そこまでは行ってないが、下手したら国を巻き込む争いに発展するやもしれない」

「何かから、逃げてたの?」


 思い付きだった。魘されていた顔をふと思い出す。

 侵入者と言っていた。

 悪夢を見たといっていた。

 複雑な家庭環境。

 ――衣食住の確保と身の安全の確保――された――誰にも知られぬ誰も知らぬ――異空間。

 まるで危険が過ぎ去るまで身を潜めるためのシェルターのよう。


 凛子の言葉に、シェイルは少しばかり驚いたように目を見開き「聡いな」と言う。


「侍女とか言ってたでしょ? シャールって良いとこのお坊ちゃんなんじゃないの。お家騒動に巻き込まれて――遺産相続とか。ああでもそれじゃ国家間の紛争まではいかないか」


「リィン」

 そう呼ばれるのにも、違和感がなくなっているのに。

「これを」


 首から下げられていた鎖についている、銀色のチャームを手渡された。

 かなり凝った意匠である。


「なにこれ」


 シェイルは肩を竦めただけで、答えない。

 青灰の瞳が揺れる。

 凛子はじっとその色を見つめる。

 視線をはずしたのはシェイルの方だった。落ちていた沈黙が破られる。


「お前に持っていて欲しい」


 チャームを隠すように、シェイルの手が凛子の手をまるごと包み込む。

 骨ばった長い指と、あらゆる感情を隠してしまった瞳に視線を行き来させる。


「そろそろ時間切れ、なの、かな」


 ワインはまだ半分しか空けていない。飲みきらないと酸味が増してしまう。

 凛子の言葉にシェイルは口の端をやや持ち上げる。


「そうだな」

「もう会う事も、ない……よね」

「ああ」


 掴んでいた凛子の手が開放される。

 体温が離れ、凛子は思ったことを素直に告げた。


「ちょっと、寂しいかも」

「――――俺もだ」


 遅れて届いた言葉。

 それが、最後だ。


 ばたん、とあっさり過ぎるほどあっさりと扉はしまった。

 無機質の灰色に伸ばしかけた指先を刹那で止め、それから凛子は立ち上がるとドアノブをまわした。


 もったりとした生暖かい空気。まとわりつくそれらは、懐かしいものだ。

 人口の明かり、非常灯の緑。レンガ色をした壁面。規則正しく並ぶ、向かいの建物の窓。階下を流れる車が残すオレンジ。


 凛子は凛子の世界を存分に視界にとらえ、呼吸する。

 予測もせぬ間に始まり、唐突に遮断された。

 不可思議な週末は、終わったのだ。



 ひどく曖昧な感情の残滓を残して。



彼女の週末、彼の休暇 <了>

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