第7話 彼女の週末、彼の休暇⑦

「楽しいか?」

「うん、綺麗だし。他にすることないし」

「あるだろ、掃除」

「観測史上初って言って良いくらい片付いているから良いの」

「なんだそれ」

「こっちの話ー。動かさないでよ」


 両手で頭を挟んで前を向かせると、集中できないという台詞が返ってきた。

 シェイルは編みこまれた何本もの三つ編みを解す。


「男の髪は、編まない」

「そういう決まり?」

「そんな決まりは無い」

「機嫌悪いなあ」

「夢見が悪かったんだ」


 反対に背中に回られ、髪を一つに纏めていたコンコルドピンを取られる。


「汚いよ、洗ってないんだから」

「それを言うなら俺のも同じだろう」


 手櫛で髪を梳かれると、気持ちが良い。昼食を食べたばかりという事もあり、途端に眠気が押し寄せてくる。傾いだ体は重力のまま後ろに倒れこんだ。


「しつれいしました」

「食べて直ぐ寝ると太るぞ」


 言いながらも髪を梳く手は止まらない。


「似ているな……」

「何が?」


 身を捩ろうとすると「動かすな」と同じ台詞が返ってきた。正面をむいた視界に写るのは、暖炉の炎。フライパンが横に転がっている。この部屋に似つかわしくない段ボール箱の中にあるのは、かき集めた食材だ。残っているのはスナック菓子とビールとワイン。


「昔懐いていた犬も、首の辺りを掻いてやると満足そうにしていた」

「犬! 似ているって――」

「動かすなと言っただろう」


 最後まで言うことを許されず、がっちりと頭を抑えられる。シェイルに完全に寄りかかっている体制だ。硬い筋肉が、凛子の体を支えている。膝枕ならぬ人間座椅子。憮然として頬を膨らませると「子供だな」と小突かれた。


 ああ、でも。


「良いな。シャールみたいな弟が居たら」

「……弟?」

「わたし妹だし。自分より下に弟か妹欲しかったな」


 ちょっと生意気で、軽い口喧嘩出来る相手。凛子は義兄に懐いていたが、年齢が離れすぎていた所為か、兄妹喧嘩をした記憶が無い。


「……リィンみたいな姉は要らない」

「わぁ、爽やかに言われるとむかつく」

「そうか?」


 覗き込む瞳は、してやったりといった風に笑みを滲ませる。


「これ以上兄弟が増えるとややこしくなる」


 無骨な指が、濃茶の毛先を弄ぶ。一束そっと掴むと「綺麗な色だな」と呟いた。


「染めているけどね。元々真っ黒」

「黒いのか、ラストゥーリャが喜びそうだな」

「扉の人が?」

「あいつの色だから」


 捻られた束が開放されると、はらはらと首元にかかりくすぐったい。同じ動きをなんどか繰り返し、シェイルは己の手の中にある髪の毛に唇を寄せる。特別甘い雰囲気だった訳ではない。


 凛子にしてみれば、体温がすぐそこに在る事で、この切り取られた空間に一人ぼっちで閉じ込められたのでは無いと実感できていたし、シェイルもまた、膝に在る暖かな物に郷愁の念を覚えつつも、届きようも無い距離を脳裏から消し去るために、つらつらと思いつくままの言葉を零していただけだ。


 伏せられた瞳を飾る睫の長さに気がつき、凛子はあんぐりと口をあけ固まった。顎が外れそうだ。


「……はじめて、見た」


 沈黙を破る声に、シェイルは僅か首を傾げ、視線を受け止める。囚われていた凛子の髪が大きな掌からはらはら落ちる。


「自然に、そういう事する人。うわあうわあ」


 責めているのでは無く、映画のワンシーンを飾る優雅な動きが、すぐ目の前で行われていると言う現実を直視し、若干ひいている。


「そういう事?」

「髪にキス。居るんだー居るんだー、そういう人。もしかしてそっちでは普通?」


 正答を待つ凛子の、引き攣らせた頬にまつわる濃茶の髪をシェイルは親指で払う。


「普通はしない」


 その言葉に「じゃあ趣味?」と好奇心を含む問いを返され、目じりを細めた。凛子の髪の中に手を差し入れると、指先が細い首筋に触れる。


「するなら、唇の方がいいだろう」


 そのまま引き寄せた体は、見かけどおりやはり華奢で暖かい。啄ばむ様に、角度を変え、そして深く。息苦しさを覚えた凛子が、小さな抗いを見せるまで何度も。腰に回された腕の感触に、現状に気がついた凛子が騒ぎ始める。


 ゆるく抱き寄せているのにも関わらず、腕の中で騒ぐ女は檻から逃れられない。ややして諦めたように、ことんと胸に押し当てられた額に、シェイルは乱れた髪を手櫛で整えてやった。


「特に、意味はない」

 そんな言葉をかけると、凛子の石化が融解する。

「なんとなくって、やつだよね」

「ああ……」

「……吊り橋理論、ストックホルムシンドロームの方かな」


 凛子の言葉は、時々自分に通じない事がある。

 凛子の推察によると、自分の世界に無い単語は、自動翻訳されないのでは無いだろうか、との事だった。出会いこそは最低だったが、この女はそこら辺にいる浅慮な女とは違う。少なくとも己の人生のうちで、初めて会った種類の人間だ。


 実際、いくつもの偶然が重なり扉が繋がらなければ会う事もなかったのだが。真っ直ぐ自分を見つめ、はっきりと物を言い、けれども感情の機微に聡く、他人の心に土足で踏みあがらず、踏みあがらせず。適度な関係性を保つこの女と、もっと話をしていたかった。


「んーっとね、前者は一時的な緊張状態における錯覚で、後者は閉鎖空間における非日常的体験の共有から生まれる無意識の友愛」

「この状況を的確に表しているな」

 ――けれども。

「継続的には発展しないらしいけどね。元に戻れば……って、明日月曜日だよ! うわー仕事どうなるんだろ。ついでに、食料の在庫がそろそろやばいんだよね。餓死は避けたい」


 場を和ませるかのような口調に、シェイルは強く凛子の体を抱きこんだ。


「二昼夜」

「な――」

「――二昼夜、だ。扉が繋がって作り上げられた空間が保つ時間は、二昼夜」

「え……じゃあ……」

「半日も経てば、戻る。お互いの現に」


 沈黙が降りる。

 凛子はシェイルの胸に手をついて顔をあげると、正体不明の感情が綯い交ぜになっている青灰の瞳に微笑んだ。


「……なら、良い子のシャール君には、最後の晩餐にとっておきの非常食を振舞ってあげる」

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