第5話 彼女の週末、彼の休暇⑤

「リィン」


 自分を呼ぶ声がする。


 暖炉の前で転がっていた凛子は、手にしたまどろみを放すまいと半目を開けて声の主を見やった。


 シェイルが呆れたような表情で、自分の横に腰を下ろす。ばさりとお腹の辺りにかけられたものは、膝かけだった。冬場オフィスで使っていたものなのだが、春にクリーニングに出し、夏の今はクローゼットの隅で存在を忘れられていたものだ。


 週末の掃除に、衣類の出し入れまでは予定していなかったのだが、調節の難しいこの異空間の室温に、羽織るものを求めて収納ケースを漁った結果だった。凛子の部屋はエアコンの必要ない過ごしやすい温度でどちらかというと涼しい位だ。反してシェイルの居室は暖炉の暖かさが違和感無いほどの室温なのだ。


 凛子が暖炉の前を陣取って寝転がっていたのは、単純に暖炉が目新しいもので憧れにも似た気持ちを感じたから。そして、彼女の主な作業には暖炉の炎が必要不可欠だったからだ。


 調理然り、読書然り。


 凛子の部屋よりか、こちらの部屋の方が断然に明るい。

 どういった原理か不明だが、石造りの壁面に作りつけられているトーチの炎も一昼夜経とうとしている今になっても、消える気配が無い。凛子が探し当てた華型キャンドルは、既にそのかわいらしい形を崩し、短くなった芯が辛うじて残っているというのに。


「お前には慎みが無いのか」


 はしたない。と存外に言われ、凛子はオヤジ――。と心の中で答える。


 枕にしていたクッションにあごを載せ、足をばたばたさせると、ひざ掛けがめくりあがりむき出しの両足が姿をみせる。凛子のルームウェアはローウエストのホットパンツ。上がロングTシャツ。


 暑かったり涼しすぎたりする為調節が難しい。履いていたもこもこのソックスは転寝している最中に脱いだようだ。自分にとっては当たり前の部屋着でも異世界人から見ると露出狂になるらしい。


 出会ったときに至ってはキャミソールにパンツ姿だったのだから、今更騒ぎ立てるものでも無いのに。因みにお風呂に入れなかったお陰で、髪の毛は適当に纏め、前髪はヘアピンで留めている。メイク落としで化粧を拭き取ってしまったからすっぴん。ついでにフレームの少し曲がった眼鏡。オプションとしてはノーブラ。


「だって、自分の部屋だし。せっかくの休みなんだからリラックスしたいじゃない」

「ここに俺が居るということを忘れるな」

「どきどきしちゃったりする? 年頃の異性が近くに居ると」


 からかうような問いにシェイルは言葉を詰まらせるが、むっとしたように「子供には興味ない」と答える。


「子供? わたしが? そいえばシャールって何歳?」

「先月十八になった」


 単純な疑問への答えに、凛子は声を失う。


「……ええと、冗談言ってるわけじゃないよね?」


 小さく頷かれ、ずり落ちた眼鏡を掛けなおした。


「同じくらいだろ?」

「いや……」

「まさか年上とか」


 それこそ冗談だろうと言われ、思わず何歳に見えるのか聞いてみた。

「十七、八」

「へぇえええええ。そういう年齢に見えるんだ」


 一般的にアジアンはコーカシアンらに比べて、若く見えるらしい。

 大学時代に留学していた友人が、いちいちIDを見せなければ煙草もお酒も売ってくれないと言っていた。シェイルが何人かは判らないけれど、外見的にはコーカシアンと呼ばれる人種に近い。


「あのね、二十六です。つまりシャール君より八歳お姉さんって事になるね」


 今度はシェイルが言葉を失う番だった。

 まじまじと凛子を眺め、ぽつりと「信じられない……」と呟いた。


「わたしの方こそ同じくらいかと思ってたよ」

「リィンの周囲では一般的なのか? ええとその」

「こういう外見?」

「ああ」

「一般的だと思うよ。特別な事なんにもしてないし」


 基礎化粧は二十五歳を超えてから、ワンランク上のものに変えたけれど。凛子の言葉に何故か肩を落とすシェイルを慰めるかのように、ぽんぽんと亜麻色の頭を叩く。


「これが本当の異文化コミュニケーションってやつだねぇ。驚くこと一杯だよ」

「本当に……二十六なのか?」

「こんな所でサバ読んでも意味ないじゃないの。っていうかそこ溜息吐くな」

「こういうのが一般的な世界か……」

「なんか、なんとなくムカツクんだけど」


 凛子がむうと睨み付けると、シェイルは漸く納得したかのように「本当にあらゆる意味で理が違うんだな」と顔をあげた。


◇◇◇


 本日の作業はそろそろ終わりらしい。

 スマートフォンで時間を確かめると、間もなく日曜日へと日付が変わる頃だった。ウエブページを閲覧する事も無いため、スマホの充電は暫く持ちそうだ。


「順調?」


 結局、暖炉の前に座り込んでしまった美丈夫に声を掛けると、ノートをぱらぱらと捲っていた手が止まる。大きな手にボールペンという組み合わせは、なかなか良い組み合わせだな、と、尋ねたものの凛子はどうでもいい事を考える。


 けれど十八歳と言っていた。もっと、健康的なもの。野球のバットとか。ちょっと違う。バスケットボールはどうだろか。いや、車のハンドルを握る手なんか良いかもしれない。


「判った事がいくつかある」


 書き写された紋様の一部分を、シェイルはペン先で示す。

 凛子にはどこが魔術云々術式なのかさっぱり判らないが、シェイルはボールペンを赤インクに切り替えるとぐるぐるとマークをつけた。


「例えば俺とリィンが会話できる理由」

「ああ!」

 言われてみると。

「シャール、日本語話してるよ」

「にほんごというのがリィンの世界言語か?」

「世界言語って、良く判らないんだけど……わたしの世界にある言語で、わたしの国の言語。わたしが話している言語」

「という事は他にも?」


「いくつあるのかわからない位あるよ。なんせ世界190カ国超えているんだから。古語とかいれたらえらい数」

「190? 多いな」

「そっちの世界には、いくつくらいあるの?」


「俺の国がある大陸に五カ国。山脈を越えた西側は小さな部族がいくつかあると聞いているが正確な数までは不明だ。蒼海の向こうにある大陸の三カ国とは交流しているが、それより向こうも判らないな。把握している範囲で言うと、各国で使用される古語を足しても両手を少し超えるくらいで、殆どの国が大陸共通語を話す」


 二十世紀に入って飛躍的に発達した科学技術によって、凛子の世界は近くなった。修学旅行で近場の海外に行くのも珍しくないし、繁忙期に国外脱出を計る者も少なくない。日本の裏側にある国とも電話は通じるし、インターネットや衛星回線を使用すれば大した料金がかからない。


「ここの式に、俺が扉を繋げた際、扉の向こう側――今で言うとリィンの世界を構成している理の基幹となる物を分けてもらえるように書かれてある」

「うーん、それが言語?」

「基礎だからじゃないだろうか。言葉の通じない相手と意思疎通を図るのは難しい」

「そういうもんかね」

「そういう物だ」

「でもさ、偶然シャールの部屋の向こうにわたしの部屋があったんでしょう? いきなり砂漠とか迷宮とかだったらどうするの? 野垂れ死ぬじゃない」

「それは、ここに書かれてある」


 先ほどマークした箇所の右下あたりに赤丸が描きこまれる。


「最低限の衣食住の確保。身の安全の確保。現状、衣食住はどうにかなっているし、リィンになら寝こみを襲われ命を落とす心配は無い。ごろごろ寝転がって酒を飲んでいるぐらいで無害だ」


 からかうように視線を流され、凛子は頬を膨らませる。


「今は休みだからいいの! 普段は超絶多忙なんだから」

「二十六歳だしな。 結婚は?」

「さらりと失礼なこというよねー。自分は青春謳歌しちゃってるからって」

「あの部屋の様子だと、していないだろうな」

「していません。 わたしの世界ではね、二十六歳で結婚しちゃうと、割かし早いねって言われるんだから。会社の姉さん達だって、三十超えて独身の人ごろごろいるし」

「女がそんなに働いてどうする? 連れ合いをもって子供を成した方が幸せなんじゃないか?」

「それ男尊女卑的発想。やりたくて仕事しているんだからいいの」

「そんなに働きたかったのか?」

「やりたいことやってお金稼いで、そのお金で美味しいお酒を飲める。最高じゃない」

「最高、か」


「シャールは将来何になりたいの? なんか夢とかあるでしょ?」

「夢……考えた事もないな」

「無いの? ああ、わたしも学生時代は遊ぶのに夢中で就活はじめてからだっけ……うーん、そっちはどんな職業あるんだろう……賢者がいるなら学者とか? あと魔法魔法。魔術師とか?」

「魔術師ならすでになっているともいえる。俺は魔術も使うから」


 思いつくまま適当に言葉を重ねていた凛子は、シェイルの返事に思わず反応する。


「使えるの? やってみて!」

「試したが、此処には殆ど要素がないらしい」

「わーん残念」

「そんな落ち込むほど魅力的な物か?」

「だって、さっぱり検討つかないんだもん。あの扉の模様に、変な仕掛けが施されててさ。で、シャールはそれを解析?して、どういう作用を起こすかが判るんでしょ?」

「俺からすれば、リィンのよく弄っている時を刻む四角い板切れが便利そうでひとつ欲しい。簡易照明にもなるし」


 スマートフォンを指し示され、凛子はなんとなく納得した。


「隣の芝生は青く見える、ね。本当に異文化だわ。携帯を板切れ。そういや日本語話せているのにビールは知らなかったしな」

「びーる。リィンの好んでいる水だな。麦の酒」

「……もしかしたらシャールの世界に無いものは、通じないのかもねえ」

 聞き返された単語を頭の中で並べてみる。


 にーけー、せくはら、かがく、にほんご。凛子という名前も無いのだろう。


「本当に不思議だね。面白いけど」

 不意に笑いかけられた当人は、一刹那だけ声を詰まらせる。

「……こんな事が無ければ出会わなかっただろうな――」

「ん?」

「独り言だ」


 シェイルは何かを誤魔化すように、無防備な格好で首を傾げる凛子の頭を、掻き雑ぜた。

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