第4話 彼女の週末、彼の休暇④
食欲をそそる匂いに誘われるよう、シェイルは扉の紋様を紙に写し取る手を休めた。思い出したように空腹を覚える自分に苦笑を漏らす。
振り返ると、暖炉の前に座り込んで作業をしていた凛子が立ち上がるのが見えた。朝食は訓練中に支給される携帯食料に似たような粗末なものだったが、この分だと昼食は期待できそうだった。
「先ず隗より始めよ――人間、やればできるのね」
凛子は、自分の成果に満足したようにテーブルの上を眺めた。
といっても大した物ではない。スライスチーズを適当にちぎって混ぜたスクランブルエッグに、買い置きしていたものの存在を忘れていたソーセージ。奇しくも冷凍庫に入れていたのだが、不慮の事故によって解凍されてしまった食パンと、冷凍野菜の代表格であるほうれん草もフライパンで軽く炒めてみた。
調理器具に調味料とお情け程度の食材は残っていたし、ガスがなくとも、なぜか隣室の暖炉の火は消えないままだ。
些か乱暴だけれど薄く油を引いたフライパンを暖炉に突っ込んでみたところ、うまくいった。柄の部分が多少焦げてしまったが、特別問題があるわけでもない。
一人暮らしの凛子は多聞にもれず、自炊を久しくした記憶が無かった。
水はペットボトル一本しかなかった為、先日ネット通販でダース購入した安いワイン――ランブルスコ――である。アルコール分も通常のものより低く、凛子にとってはジュース代わりだった。重厚なテーブルに似合ぬ安っぽい食器ではあるが、いくつかの彩りを盛り付け並べると、それなりに見える。
「ほう、なかなかだな」
自分の隣に座ったシェイルに「でしょう」と得意げに胸を逸らし、食パンを手にするとバターを塗った。
「見たことある食べ物ある?」
「ああ、どれも見たことがあるな。これは日頃食べないが」
シェイルはソーセージを口に運びながら答える。
「ふーん、食文化は似ているのかな。それソーセージね。たぶん豚のどこか」
「ベレーの味に近いな。これはザラサィに似ている」
次に示されたほうれん草に凛子は微妙に笑った。
「そう言われると違う味を思い出しちゃう」
いわずもがな、ザーサイである。
「で、解析ってヤツの調子はどうなの?」
「ラストゥーリャの術式の意地の悪さを改めて思い知る良い機会になった」
「らすとーりゃは人の名前?」
「叡智の塔主、天文官、黒き賢者、ラストゥーリャ・ハルス・ウル・シータ」
「長っ。全部名前?」
「叡智の塔主と天文官は同じ意味だな。天文官は役職で、叡智の塔内に執務室がある。黒き賢者は二つ名みたいなものか。ラストゥーリャ・ハルス・ウル・シータが名前になる」
「それにしても長いよ。……シャールだっけ? あんたの世界の人ってみんなそんな感じ?」
「シェイルだ。まぁ、シャールでもいいか。新たに名付けられるというのも、新鮮なものだなリィン」
シェイルは小さく笑いを漏らす。
「高宮凛子」
「ターミリィーン」
「違うよ凛子が名前」
「リィ――リィンで良いではないか。言いやすい」
「なにそれ」
「お前は俺をシャールと名付けた。俺はお前をリィンと名付けた。空間を共有する同志の絆のようじゃないか」
名案だという顔つきでシェイルは凛子の頭を撫でる。
「なんだか良くわかんないからそれでいいよ……」
何が面白いのかシェイルはくつくつと笑いを深くする。
「お前と話していると実に新鮮だ。それも理が違うからなのか」
「さぁ……わたしは凄く疲れるんだけどね」
「ラストゥーリャにはある意味で感謝しないとな」
肩を落とす凛子の横で、シェイルは機嫌よさそうにグラスを掲げ、透明な液体を揺らした後、杯を空にした。
◇◇◇
薪が時折爆ぜるあちらの部屋に居ると、尋常では無い出来事に巻き込まれたと実感できるのだが、2Kの自室に戻ると、途端に現実へ引き戻される。
たった一歩で、現と夢を行き来する。
すらりとした長躯の美人。
男性を指して美人と言うのに違和感を感じさせない美。
わりと癖の無い亜麻色の髪は背中の中ほどまである。髪紐は無いかと聞かれたため、シュシュを渡しておいた。黒地にピンク色のドット。ポリエステル100%である。
三色ボールペンに感嘆し、ノートの紙の感触に驚愕し、勿体無いとつぶやきながら、今は玄関口に座り込んで、扉に掘り込まれている細やかな紋様を写し取っている。真剣にその模様を見る瞳は青灰。胡坐の形に組まれた足は長く、長衣の襞はだいぶ崩れ皺がよってしまった。
血統書付きのどこぞの猫のようなお坊ちゃまに、着替えを求められたのだが、百八十センチメートルを優に越す男に合うような衣服は生憎持ち合わせていない。凛子が寝巻きとして使用していたTシャツが、彼女の持つもっとも大きなサイズの衣服で、シェイルは不満げにしながらも、仕方なしにそれを身に着けている。
つまり今は、ぴっちりとした黒い綿のTシャツとロングスカートのようにして身に着けている長衣と云う格好。違和感たっぷりな組み合わせを思い出して、凛子は少しだけ笑った。
彫りの深い顔に引き締まった唇。
瞳の色は青灰色。
美醜の判断をする機会が、一般よりも多い彼女の目から見てもそれらは、美しい配色、美しい比率をもって、その人を構成している。
ボールペンの構造について質問を繰り返し、シュシュで髪を束ね、Tシャツのタグの意味を問う。と書くと頭の螺子が飛んでしまった人物を思い浮かべてしまうが、彼は異邦人。
否、異邦人どころではない。世界の理が違うといっていた。
異世界の存在なのかもしれない。宇宙人云々、平行世界云々は数多の人間によって議論されてきたが、その存在証明となりえるかもしれない物がそこに在る。
昨日帰宅した際、流石の凛子も反省し、日曜日に掃除でもしようかと思っていたのだが、彼女の日常であった混沌とした室内は、既にあっさりするほど片付いていた。床にゴミは落ちていないし、行方不明になっていたHDDレコーダーのリモコンも見つかった。
ソファの上に脱ぎ散らかされていた服もクローゼットに押し込まれ、後であちらの部屋に運ぼうと思っていた食材や調理器具が一箇所に纏められてある。ローテーブルの上に並ぶキャンドルは数を減らしたが、歩くのに困らない程度の控えめな明るさを、この部屋に与えている。
ベッドに腰掛けて窓外を眺めると、相変わらず薄暗い靄が立ち込めていて、先は見えない。幹線道路を走る車のテールランプも。駅前に立ったばかりのタワーマンションも。蝋燭の火が燃えているということは、この空間に空気は存在しているのだろうか。
昨晩窓辺でカーテンが揺れていたのを思い出し、凛子はベランダへと出てみた。季節感のないひんやりとした空気。靄に手を伸ばすと黒霧が指先を隠した。一寸先は闇という単語をそのまま表現しているような光景に、しばし放心する。
ここは自分の世界では無い。そしてシェイルの居た世界でもないと言う。
ならばここはどこなのだろうか。日常から弾き飛ばされてしまった世界と世界の狭間。
「おい、あんまりそれに触れるな」
掠れた声と共に指先が握りこまれる。背中に暖かな体温を感じて、凛子はなぜか安堵する。振り返ると青灰の瞳が心配げに細められていた。
「なんで?」
「得体が知れぬものだから」
なるほど正論だ。
例えば毒々しい色を放っている茸。奇妙な殻で柔らかな肉を守っている貝類。自分の理解の範疇外のものに不用意に触れると碌な結果を残さない。シェイルはどこか遠い目をしたまま、凛子の指先を握り締めている。妙な居心地の悪さに振り払おうとすると、バランスを崩してシェイルの腕の中に自ら飛び込んでしまった。
したたかに打った鼻が痛い。
また例の人の悪そうな笑みを浮かべて笑っているのだろう。
上下する胸の筋肉にむっとして顔をあげると、大丈夫か? と想像とは違って気遣う瞳に覗き込まれた。
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