第3話 彼女の週末、彼の休暇③
「はあ」
何度目になるか判らない溜息を吐いた凛子に、ベッドに寝転がっていたシェイルは「そろそろ現実を認めろ」と鷹揚に言った。
結論からいうと疲労困憊の身体に鞭を打って、掃除をした――させられた。
床に落ちていた……埋め尽くされていた要らないものを片すと、それなりの空間が広がる。
職業がら溜まっていく一方の雑誌はひとまず目に付くところに積み上げて置く。それ以外の明らかに塵と分類されるものについては、自治体推奨の半透明の袋に突っ込んだ。殆どが紙ゴミと空き缶にペットボトル。
実に五袋にもなってしまったそれらの置き場としてひとまずベランダを選んだのだが、その際に、凛子はとんでもない事実に気がついた。
まず今の季節は夏である。
しかも夏真っ盛り。
気象観測史上という言葉が、今年も例に漏れず気象予報士たちによって、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返されている。
それにも関わらず、薄ら寒い空気。
むき出しの二の腕を擦りながら見下ろした世界は、しっとりとした靄に包まれている。何も見えない。夜空も見えなければ、街明りもない。まるでこの部屋だけ切り取られてしまったかのように、外には何も無いのだ。
じゃあ向こうの部屋は?
あの古びていて豪奢な、あの部屋の向こうは?
ようやっとそこに思いが至ったがいなや、凛子はシェイルの居室だという部屋に飛び込んで濃藍のカーテンを徐に払う。透明なガラスの向こうは、同じような靄に包まれていて視界が不明瞭だ。
今度は騒々しくもう一つの扉へと向かう。両開きの重い扉を開くと、黒くしっとりとした夜気のような靄に包まれている。戸惑いながらも爪先を出してみると、得体のしれない何かが絡みつくような感覚に陥り、慌てて扉を閉じた。
「なんで?」
一連の確認作業を終えた凛子は疲れたように、床に敷いた客用布団の上に座り込んだ。
なぜこの部屋の主である自分が、布団なのかといえば、シェイルが床で寝るのを断固拒否したからだ。
凛子としては別にどちらでもいいのだが。というか、別に自分の部屋で寝なくとも、あちらの豪奢な長椅子で寝ればいいじゃないか。
「先ほども言っただろうが。この扉ひとつを隔てて、俺の世界とお前の世界は繋がった」
「ああ……言ってたっけ……。でもなんで?」
「誰にも知られぬ誰も知らぬ願えば開かず願わずとも開く――俺たちの部屋を繋ぐ扉に隔離結界の術式が彫られているのだと思う」
「……術式ねぇ。魔法とか言っちゃったりする?」
「少し違うが似たようなものだな。魔法は自然界を構成する要素に基づくもので、紋様術を含む魔術は、人が潜在的に有している魔力と自然界に置ける五大要素を融合してより効果的に発動させるための計算式を明文化した――」
「うう、許容できる理解を超えたよ……」
「そうなのか? 理がちがうだけだろう」
「理ねぇ……。科学みたいなものかなー」
「かがく、とは、お前が先ほどから弄くっているそれか?」
「そう」
凛子はタッチパネル式のスマートフォンの液晶画面を胡乱に見る。科学技術の結晶とも言えよう。デジタル数字が示す時刻は午前五時。夏の夜が明けるのは早い。しかし太陽が姿を現す気配は無い。そうして、嫌でも目に飛び込む圏外の文字に、凛子は諦観せざるを得なかったのだ。
「それが白い光を放っている原理は俺も判らないが、お前の世界では当然のことなのだろう?」
「まぁそうだけどさ」
ごろんと横になって、タオルケットをひっぱりあげると、肩肘をたてた体制で、こちらを見下ろしているシェイルと目が合う。
「その術とかでちゃっちゃと元に戻らないの?」
「俺が構成した計算式ではないからな。解析するのに少々時間が要る」
「……あんたの部屋と繋がっちゃったって現実は…………認めるよ」
こうなったらとことん現実的になってやるけど。
凛子はシェイルから、見慣れた天井へと視線を移す。
気持ちだけでも、体を休ませておいた方がいい。
とんだ週末になりそうだ。
水道、ガス、電気。
ライフラインの復旧は絶望的。
ついでに、食料もだ。
何が悲しくて住み慣れた自分の部屋でサバイバルを意識しなければいけないのだろうか。現実ってヤツは小説か何かのように、気を失って、おしまい。という訳にはいかないらしい。
「言っておくけど……この貸しは大きく付くからね!」
凛子の言葉に、シェイルは刹那だけ瞠目し、吹き出す。
「何がおかしいのよ」
「いや……。そうだな。必ず借りは返そう。ヴェイル・シェイル・ガーランド・エレ・ラ・アゼリアスの名に於いて、空間の共有者リィンに約束する」
間の抜けた表情を返す女にシェイルは、またひとつ笑いを落とし、瞳を閉じる。
狭い空間。安っぽい寝具の感触。すぐそこに感じられる、見知らぬ存在の呼吸。
だがしかし、不思議と不快ではない。
稀代の術師によって創り上げられたこのどこにも属さぬ狭間が、暫しの休息を自分に齎すであろう予感さえある。
こうして、彼女にとって憂慮に塗れた週末の始まり――彼にとっては強制的に与えられた休暇の始まりが告げられた。
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