第1話 王子を殺す。そして憑依される。
地下深くに作られた組織の本部は、奇妙なほどに清浄な空気が満ちている。
血や鉄の臭いなど微塵もない。漂うのは、最高級の紅茶の香りと、静寂だけだ。
ここは大国ゾナリオの影に巣食う暗殺組織、黒の金曜日の中枢。
「入れ、レン」
重厚な扉の向こうから、よく通る朗らかな声が響いた。
俺は扉を開け、絨毯の毛足一つ乱れていない執務室へと足を踏み入れる。
部屋の中央、革張りのソファに深く腰掛けている男こそが、組織の首領ザイードだ。
上質な白いスーツを着こなし、柔和な笑みを浮かべるその姿は、暗殺者のドンというよりは、成功した貿易商か慈善家のようにさえ見える。
「コードネーム「影渡り(シャドウ)」。ただいま参りました」
俺は片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
孤児だった俺を拾い、育ててくれたのがザイードだった。
彼は気前が良く、部下の面倒見もいい。だが、時折その笑顔の奥に、深淵のような暗闇が見えることがある。
「顔を上げてくれ、レン。私の自慢の息子よ」
ザイードは手元のグラスを置き、ハンカチで指先を丁寧に拭いながら言った。「特級任務だ。お前にしか頼めない、組織の悲願なのだよ」
「、、、光栄です。ターゲットは?」
「第1王子、ソルガ・ゾナリオ」
その名前に、俺は息を呑んだ。
国の英雄たちの力を継承し続ける、生ける国防兵器。
「、、、ザイード様。発言の許可を」
俺は顔を伏せたまま、短く言った。
「許すよ。何かな?」
「私は組織の道具です。命じられれば、たとえ神であろうと刺しましょう」
淡々と、しかし事実として告げる。
「ですが、任務遂行は不可能です。王子を守る城のセキュリティはまだしも、相手は数千の英霊を宿す化け物。私の刃が届くより早く、視線一つで消し飛ばされます。私には、王子は殺せません」
それは拒絶ではない。道具としての冷静なスペック判断だ。
自殺命令なら喜んで受けるが、失敗が確定している暗殺行など、組織にとって損失でしかない。
だが、ザイードの笑みは崩れない。むしろ、駄々をこねる子供をあやすように目を細めた。
「ああ、まともにやり合えばな。だが、物理的な壁も、絶対的な魔力差も関係ない。お前には空間跳躍(ワープ)がある。」
ザイードは立ち上がり、一枚の紙をテーブルに広げた。
それは城の詳細な見取り図だったが、無数に引かれた赤い線の中に、一本だけ青い線が引かれている。
「ルートは確保してある。」
彼は地図上の青い線を指先でなぞり、塔の最上階、王子の私室へと導いた。
「通常の侵入者なら、その穴を抜けても城内の結界や警備兵に阻まれる。だが、お前ならどうだ?」
「穴を抜けた瞬間、壁を無視して王子の眼前に跳躍できます」
「その通りだ。お前の異能は、距離も障害物も無視する防御不能の刃だ」
ザイードの手が、俺の肩に置かれる。その温かさが、逃げ道を塞ぐ鎖のように感じられた。
「それに、これはお前にしか頼めないんだ。他の有象無象では、王子の前に立つことすらできん」
耳元で囁かれる甘い信頼の言葉。それが俺の思考を縛り付ける。
「王子を殺し、その証拠を持ち帰るのだ。、、、できるな?」
反論の余地は、もうなかった。
これ以上言えば、それは「道具」の不具合と見なされる。
「----御意。必ずや、期待に応えてみせます」
「詳しいことや使用武具は外にいるバルドに聞け」
俺は深く一礼し、部屋を辞した。
部屋を出ると、廊下の闇に人影が佇んでいた。
組織の武器庫を管理する古株、バルドだ。無口な大男で、俺たちのような実行者に道具を支給する役目を負っている。
「ボスから聞いている」
バルドは短い言葉と共に、黒塗りのケースを俺に押し付けた。
中には、鈍い銀色の輝きを放つ一本のナイフと細かなが収められている。
柄には複雑な術式が刻まれ、刃そのものが魔力を拒絶するような冷たさを帯びていた。
「特級の『魔力無効化(アンチ・マジック)』のナイフだ。国宝級の代物だぞ」
バルドが低い声で説明を加える。
「王子の体は、それ自体が巨大な魔力の塊だ。お前がワープで近づけたとしても通常の刃物では、常時展開されている魔力層に阻まれて皮膚一枚傷つけられん。だがこいつなら、あらゆる魔術的干渉を無効化し、肉に届く。」
「なるほど。これなら殺れる」
俺はナイフを手に取り、その重みを確かめる。魔力を弾く独特の感触。確かに、化け物の喉を切り裂くにはこれが必要だ。
「心してかかれよ、レン」
「ええ。行ってきます」
俺はナイフを懐に仕舞い、バルドに背を向けた。
ザイード様のために。組織のために。俺の抱く忠誠心に、一点の曇りもなかった。
その光の届かない上空、塔の影に俺は張り付いていた。
黒装束に身を包み、呼吸を極限まで浅くする。
本来なら侵入不可能な聖域。だが、俺には青い線で示された道が見える。
「跳ぶぞ」
視界を固定。座標を指定。
世界が反転する感覚を感じ、俺は空間を渡った。
一度目の跳躍で外壁の内側へ。二度目で塔の壁面を蹴り上がり、三度目で---王子の寝室の中央へと転移した。
音はない。気配も殺した。
俺は即座に周囲をスキャンする。広い部屋。豪奢な調度品。そして、窓辺に立つ銀髪の青年。その青年をとらえた瞬間、任務の失敗を悟った。ワープが使えないのだ。
第1王子ソルガ。
彼は本を閉じて、ゆっくりとこちらを振り返った。
侵入者である俺を見ても、叫ぶことも、衛兵を呼ぶこともしない。
「・・・こんばんは。黒の金曜日の方かな?」
穏やかな声。まるで待ち人を迎えるような響きに、俺は眉をひそめた。
ナイフを逆手に持ち、距離を詰める。
「動くな。騒げば即座に殺す」
ワープが使えない時点で詰んでいる。
警備兵を呼ばれれば終わり。あるいは王子本人が指先を動かせば、俺は灰になるだろう。だが、俺は毅然として振る舞う。それが暗殺者としての最後の誇りだ。
「騒がないよ。むしろ、君が来てくれて安堵している」
ソルガは不可解な笑みを浮かべ、両手を広げた。
「空間が固まっているだろう? すまないね。僕の中の英霊たちが過保護で、無意識に空間干渉を阻害してしまうんだ」
こいつ、俺の能力も、今の窮状もすべて理解していやがるのか。
「だが、君ならやれる。そのナイフ・・・『魔力無効化』の刃があれば、僕の守りを貫ける」
「……命乞いか? それとも挑発か」
「取引だよ。僕を殺してくれ。そうすれば、君は最強の力を得て、この空間の呪縛も解ける」
ソルガが一歩、俺の方へ歩み寄る。心臓の位置を晒すように。
「僕は外に出たい。でも、この国防兵器としての体がある限り、城からは一歩も出られない。だから待っていたんだ。僕を殺して、魂ごと連れ出してくれる器を」
狂っている。
こいつは、自分が殺されることの意味を分かっていないのか?
いや、歴代の英雄の思念に精神を蝕まれているのかもしれない。
だが、好都合だ。
ワープが封じられている以上、俺が生き残る道は一つ。この場の主である王子を殺し、その死によって術式が解除されることに賭けるしかない。
「恨みはないが、任務だ」
俺は躊躇なく踏み込み、その無防備な心臓にダガーを突き立てた。
肉を裂く感触。溢れ出る血。
その瞬間、ソルガの身体がまばゆい光となって弾けた。
「―ッ!?」
光の奔流が、俺の腕を伝って体内へとなだれ込んでくる。
熱い。焼けるようだ。
数千人規模の魔力が、力が、俺の器をミシミシと押し広げていく。
『頼んだよ、相棒。……さあ、これで君のワープも自由だ』
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