第2話 沼男
目が覚めた時、俺は組織のアジトの入り口に立っていた。
どうやって帰ってきたのか記憶が曖昧だ。だが、身体の奥底に、得体の知れない膨大な力が渦巻いているのを感じる。
任務完了の報告を。ボスは喜んでくれるだろうか。
俺は重い足取りで、首領の部屋へと向かった。
「……戻りました、ザイード様」
扉を開けると、そこには変わらぬ清潔な空間と、紅茶を楽しむザイードの姿があった。
彼は俺の姿を見るなり、破顔一笑した。
「おお、レン! おかえり! 待ちわびていたよ!」
彼は両手を広げて歩み寄り、俺を強く抱きしめた。
甘いコロンの香り。父親の包容力。俺の張り詰めていた糸が、ふっと緩む。
「無事で何よりだ。……それで、王子の力は? 上手く馴染んだかい?」
「は……、はい。身体の中に、強大な魔力を感じます」
「そうか、そうか! やはりお前の器は最高傑作だ!」
ザイードは満足げに頷くと、俺の肩をポンポンと叩き、一歩下がった。
そして、先ほどと変わらぬ満面の笑みで、こう言った。
「では―――ご苦労だったね。これでお役御免だ」
ズブッ。
異音がしたのは、俺の足元だった。
大理石の床が、突然、黒い粘液のようなものに変質していたのだ。
靴が沈む。いや、吸い込まれている。
「な……ッ、ザイード様!?」
「ああ、動かないでくれよ。私の部屋を汚したくないんだ」
ザイードはハンカチで鼻元を覆い、心底迷惑そうに、けれど愛おしそうに俺を見下ろしている。
その瞳は、笑っていなかった。底のない、虚無の瞳。
「私はね、汚いものが嫌いなんだよ。血も、死体も、裏切りもね。だから全部、この沼に捨てておくことにしている」
固有魔法『虚界の沼(ヴォイド・スワンプ)』。
それは彼が作り出す、底なしの異空間。溺れさせ、窒息させ、死体すら残さず世界から消滅させる、完全犯罪の処刑場。
「レン、君は本当によくやってくれたよ。王子の力は絶大だ。その力を私が持てばもう怖いものは何もない。私がきれいに回収して使うから、安心しなさい」
「俺を……殺して、奪うつもりですか……!」
「奪うなんてそんなぁ、ただ、君に貸した恩を返してもらうだけだよ」
足元の沼が、一気に腰まで競り上がってくる。
冷たい。呼吸が苦しい。
信じていたボスの笑顔が、今は死神の仮面に見える。
動けない。組織への忠誠が、ショックが、俺の思考を麻痺させる。
――死ぬのか。ゴミのように、捨てられて。
その時。
俺の口が、勝手に動いた。
「――『ほざけ、恩などどこにある!』
カッ!!
俺の意志とは無関係に右手が光り輝き、足元の黒い沼を浄化するように、まばゆい閃光が放たれた。
「な……ッ!? 私の沼が!?」
驚愕に目を見開くザイード。
そして俺自身も、自分の口から出た偉そうな台詞に呆然とする。
だが、次の瞬間。
パリン、と頭の中で何かが砕け散る音がした。
放った聖なる光が、沼だけでなく、俺の脳髄に絡みついていた何かをも焼き切ったのだ。視界が明滅する。頭痛と共に、封じられていた記憶が濁流のように溢れ出す。
――燃え盛る家。
――血の海に沈む、父さんと母さん。
――泣き叫ぶ、小さな妹の声。俺を庇って前に立つ、姉の背中。
『汚いものは掃除しましょうね』
次の瞬間、姉と妹が沼に飲み込まれた。
記憶の中の光景。血だまりの中、白いスーツを一滴も汚さずに立っていた男。
幼い俺の頭を撫で、『今日から私が父だ』と微笑んだ男。
ザイード。
目の前で、父親のような顔をして笑っていたこいつが。
俺の親を殺し、姉と妹を奪い、俺を道具に作り変えた元凶。
「う、あ……あああああッ!!!!」
喉から獣のような咆哮が漏れる。
恐怖ではない。絶望でもない。
それは、魂の底から湧き上がる、どす黒い殺意だった。
脳内で、あの王子の声が響く。
『目が覚めたかい? 相棒。……どうやら掃除するべきゴミは、ずいぶんと根深いところにいたようだね』
俺の右手に握られた『魔力無効化』のナイフが、青白い光を帯びて唸りを上げる。
足元の『虚界の沼』が、その光に触れた端からジュウジュウと蒸発していく。
「おや……?」
ザイードの余裕の笑みが、わずかに凍りついた。
彼は興味深そうに俺を見つめる。
「妙だね。本来、他者の根元を取り込んだとしても、流れ込んでくるのは死者の趣味や嗜好、わずかな残留思念程度だ。だが――王家の器だけは違う」
ザイードは冷徹な分析を口にする。
「あれには歴代の英霊たちの自我そのものが詰め込まれている。凡人が取り込めば、数千の声に脳を食い荒らされ、即座に発狂するはずだ。ある程度の適性がある君だとしてもそれの扱い方が分からなければ魔力を引き出すことなど到底不可能なはずだと思ったが」
彼は目を細め、俺の中にある力の質を見定めた。
「なぜ、君は正気を保っていられる? なぜ、それほどまでに魔力が澄んでいる?」
『そりゃそうさ』
俺の口を通して、ソルガが冷ややかに告げる。
『死んでまで小言を言うジジイ共とは、あの世の入り口で縁を切ってきた。今の僕にあるのは、純粋な魔力と、外への執着だけだ』
「ほう……。歴代の英霊を切り捨てたか。あぁ~勿体ない!!」
ザイードが指を鳴らす。
瞬間、蒸発しかけていた沼が爆発的に膨れ上がり、黒い津波となって俺に襲いかかった。物理も魔法も飲み込む絶対捕食空間。だが。
「――遅い」
俺は本能のままに『跳んだ』。
視界確保。座標指定。転移。
これまでなら魔力消費を気にして躊躇した連続使用だが、今の俺には感じる。
背後に繋がった、底なしの魔力タンク(ソルガ)の存在を。
ヒュンッ!
俺の姿がかき消え、ザイードの背後に出現する。
「死ねッ!!」
魔力を纏ったナイフの一閃。
ザイードの首を狙った刃は――しかし、彼の皮膚の寸前で、見えない壁に阻まれて火花を散らした。
「ッ!?」
「速いね。だが、軽い」
ザイードが裏拳を振るう。
ただの打撃ではない。拳の周囲の空間ごと捻じ切るような、重圧を伴う一撃。
俺は即座にバックステップで回避するが、衝撃波だけで吹き飛ばされ、執務室の重厚な扉を突き破って廊下へ転がった。
「ガハッ……!」
『レン、退くぞ。今の君の身体じゃ、僕の出力に耐えきれない』
脳内でソルガが警告する。
『それに、あの男……ザイードは手練れだ。彼もまた、数百の能力者を喰らっている』
俺は血を吐き捨てて立ち上がった。
廊下の警報が鳴り響き、武装した構成員たちが殺到してくる。かつて訓練を共にした同僚たちだ。
「裏切り者レンを発見! 殺せ!」
「遠慮はいらん、やれぇッ!」
前方から三人の剣士。後方から魔導師部隊。
完全に包囲されている。普段の俺なら、死を覚悟する状況だ。
だが。
「……ソルガ。魔力は持つか?」
『君の器が壊れるまで、使い放題だよ』
その言葉に、俺は口角を歪めた。
魔力切れ(ガス欠)のない『空間跳躍』。それが何を意味するか、教えてやる。
「消えろ」
俺は走らなかった。ただ、視界の端に映る敵の背後へ、思考する速度で転移した。
一瞬で剣士の背後に現れ、その延髄にナイフを突き立てる。
敵が倒れる前に、次は魔導師の目の前へ。詠唱する暇も与えず、喉を潰す。
「な、んだ……!? 消え……!?」
「どこだ! どこにいるッ!」
敵から見れば、俺は黒い霧のように点滅し、現れるたびに仲間が死んでいく悪夢だろう。影から影へ。三次元的な超高速機動。これこそが『影渡り』の真髄。魔力の制限さえなければ、俺は誰にも捕まらない。
「逃がすかよ」
背後の執務室から、ザイードのどす黒い殺気が膨れ上がる。
床も壁も天井も、廊下全体がドロドロとした『沼』に変質し、基地全体が俺を消化しようと蠢き始めた。
「チッ……!」
『上だ、レン! まともに相手をするな!』
俺はソルガの指示に従い、頭上――分厚い岩盤で覆われた天井を見上げた。
本来なら視界が通らない場所には跳べない。
だが、今の俺にはソルガの知覚がある。
「ぶち抜くぞ……ッ!」
俺はありったけの魔力をナイフに込めた。
『空間跳躍』の応用。自分自身ではなく、ナイフの斬撃の座標を強制的にズラす。
空間ごと岩盤を抉り取る、次元断裂の一撃。
――閃光。
轟音と共に、地下組織の天井に巨大な風穴が開いた。
差し込む月明かり。
「くたばれ、クソ親父(じじい)!!」
俺は瓦礫と砂煙の中、その光へ向かって最後の跳躍を行った。
下から伸びる無数の黒い触手が空を切るのを尻目に、俺は夜空へと躍り出る。
王都の北区、廃教会の屋根の上。
空間の裂け目から、ボロ雑巾のようになった俺が転がり出た。
「……ハァ、ハァ、ハァ……ッ」
仰向けに倒れ込み、夜空を見上げる。
星が綺麗だ。皮肉なほどに。
身体中が痛む。急激な魔力行使で、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
だが、生きている。
『……無茶をするね、君は』
脳内でソルガが呆れたように、けれど楽しげに笑った。
『でも、見事な逃走劇だった。……悔しいかい?』
「……ああ」
俺は拳を握りしめる。
殺せなかった。家族の仇を前にして、逃げるしかなかった。
ザイードの強さは底知れない。今のまま挑んでも、次は確実に殺される。
「ザイードは、俺が殺す。」
俺は夜空に向かって誓った。
「そのためなら、てめぇの力だろうが何だろうが、使い潰してやる」
『いいよ。僕も「家出」の身だ。行く当てなんてない』
ソルガの声が、優しく響く。
『君の復讐、付き合うよ。その代わり、僕にこの世界を見せてくれ。相棒』
俺はフン、と鼻を鳴らし、身体を起こした。
奇妙な共犯関係。だが、悪くない。
「まずは……飯だ。腹が減って死にそうだ」
二つの魂を宿した暗殺者は、夜の闇に溶けるように消えた。
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