海から来た花嫁 物語編
【序】
愛する人の「本当の姿」を見たとき、人は何を思うだろう。
私たちは誰もが、他者には見せない顔を持っている。それは隠しているわけではない。ただ、見せる必要がないから見せないだけだ。
けれど、愛する人は見たくなる。知りたくなる。あなたのすべてを。
世界中に、異類との婚姻の物語がある。海から来た花嫁、蛇の血を引く妻、アザラシの皮を脱いだ女。彼女たちはみな、人間の夫を愛した。子を産み、家庭を築いた。
そして、ある日、見られてはいけない姿を見られた。
これは、そんなお話についての物語。海と陸のあいだで揺れる愛と、別れと、それでも残されたものについての。
◇ ◇ ◇
【一】スコットランドの夜――セルキーの話
ここはオークニー諸島。北海の荒波が岩礁を洗う、風の強い島。漁師の老人が、孫たちに語りかける。
「今夜はセルキーの話をしよう。海から来た花嫁の話を」
「セルキー? あのアザラシの?」
「そうだ。だがな、セルキーはただのアザラシではない。月の美しい夜、彼らは皮を脱いで陸に上がる。すると、それはそれは美しい人間の姿になるのだ」
老人は暖炉の火を見つめる。
「昔、この島に若い漁師がおった。ある満月の夜、浜辺を歩いていると、岩の上で踊る娘たちを見つけた。月明かりに照らされた肌は白く輝き、漁師は息を呑んだ」
「人間の娘だったの?」
「いや、違う。岩の上には、脱ぎ捨てられたアザラシの皮が何枚も置いてあった。漁師は悟った。彼女たちはセルキーだ、と」
老人の声が低くなる。
「漁師は一人の娘に心を奪われた。そして、とんでもないことを考えた。彼女の皮を盗んでしまえば、海に帰れなくなる。そうすれば、自分のものになる」
「それで?」
「漁師は皮を一枚、こっそり持ち去った。夜明けが近づき、セルキーたちは慌てて皮を纏い、海へ帰っていった。だが一人だけ、皮を見つけられない娘がいた。泣きじゃくる娘に、漁師は近づいた。『私の家においで。着る物も、食べ物もある』」
孫たちは身を乗り出す。
「セルキーの娘は漁師の妻となった。子供も生まれた。七年が過ぎた。娘は夫を愛し、子供を愛し、陸の暮らしに馴染んでいるように見えた」
「幸せだったの?」
「そう見えた。だが、満月の夜になると、娘はいつも海を見つめていた。何かを探すように」
老人は溜息をつく。
「ある日、子供たちが遊んでいて、納屋の奥から古い毛皮を見つけた。『お母さん、これなあに?』 娘はその毛皮を見た瞬間、顔色を変えた」
「アザラシの皮……」
「そうだ。娘は皮を抱きしめ、子供たちにこう言った。『お母さんは海に帰らなければならない。でも、あなたたちを愛している。それだけは忘れないで』」
老人は窓の外の海を見る。
「娘は浜辺に走り、皮を纏い、波の中へ消えていった。漁師は追いかけたが、間に合わなかった。ただ、遠くの波間に、一頭のアザラシがこちらを見ていた。目には涙が光っていた」
「それきり?」
「いや。それからというもの、漁師の舟には不思議なことが起こった。嵐の夜には必ず一頭のアザラシが現れ、舟を安全な方へ導いた。子供たちが泳ぐときには、どこからともなくアザラシが来て、溺れないよう見守った」
老人は微笑む。
「覚えておきなさい。セルキーは海に帰った。だが、愛した者たちを忘れはしなかった。姿は変わっても、心は繋がったままなのだ」
◇ ◇ ◇
【二】フランスの夜――メリュジーヌの話
ここはポワトゥー地方。古城の大広間。吟遊詩人が竪琴を奏でながら、貴族たちに語りかける。
「今宵は妖精の話を致しましょう。リュジニャン家の母、メリュジーヌの話を」
「あの蛇女の?」
「蛇女と呼ぶなかれ。彼女は呪われた王女でございました」
吟遊詩人は弦を爪弾く。
「昔々、スコットランドにプレッシナという泉の妖精がおりました。彼女はオルバニー王エリナスと恋に落ち、結婚しました。ただし、一つだけ約束がありました。『私が子を産むとき、決して見てはなりません』と」
「見るなの約束か」
「そうです。しかし王は約束を破り、出産を覗いてしまった。怒ったプレッシナは三人の娘を連れて妖精の国へ帰りました。その娘の一人がメリュジーヌ」
吟遊詩人の声が沈む。
「成長したメリュジーヌは、父を裏切り者として憎み、山の中に閉じ込めてしまいました。すると母プレッシナは激怒しました。『お前は父を愛するがゆえに夫を裏切った私を責めるべきだった。父を罰したのは筋違いだ』と」
「それで呪われた?」
「そうです。『お前は毎週土曜日、腰から下が蛇の姿になる。もし誰かがその姿を見てしまったら、お前は永遠にその姿のままとなる』 これがメリュジーヌにかけられた呪いでした」
吟遊詩人は立ち上がる。
「年月が流れ、メリュジーヌはフランスの森で泉を守っておりました。そこへ若き貴族レイモンが通りかかった。二人は恋に落ちました」
「メリュジーヌは呪いのことを話したの?」
「こう言いました。『私と結婚してください。ただし、土曜日だけは私に会いに来ないでください。何があっても』 レイモンは不思議に思いましたが、愛ゆえに約束しました」
吟遊詩人は城の絵を指さす。
「二人は結婚し、メリュジーヌは不思議な力でレイモンに富をもたらしました。一夜にして城を建て、町を築き、リュジニャン家は繁栄しました。十人の子供にも恵まれました」
「幸せだったのね」
「そう見えました。しかし、子供たちの中には奇妙な徴を持つ者がおりました。片目が赤い者、牙を持つ者……。レイモンの弟がささやきました。『兄上、土曜日に妻が何をしているか、見たことがありますか? あの子供たちの姿を見れば、何か秘密があるに違いない』」
「見てしまったの?」
「ある土曜日、レイモンは扉に穴を開けて覗いてしまいました。そこには、上半身は愛する妻、下半身は巨大な蛇という姿で水浴びをするメリュジーヌがおりました」
吟遊詩人は声を落とす。
「レイモンは恐怖しましたが、愛ゆえに黙っていました。しかしある日、息子の一人が兄を殺すという事件が起こった。怒りに我を忘れたレイモンは叫びました。『お前のせいだ、この蛇女め!』」
「ああ……」
「メリュジーヌは悲しみに満ちた目で夫を見ました。『あなたは約束を破った。もう私はここにいられない』 そして窓から飛び出し、翼を持つ蛇の姿となって空へ消えていきました」
吟遊詩人は弦を静かに鳴らす。
「しかし、メリュジーヌは幼い子供たちのために夜ごと城に戻り、乳を与えたと言います。そしてリュジニャン家の当主が亡くなるときには、必ず城壁の上に現れ、悲しげに泣いたと」
「子供たちのことは忘れなかったのね」
「ええ。そしてリュジニャン家はその後も繁栄し、やがてはエルサレム王国の王族にまでなりました。蛇の血を引く一族として」
吟遊詩人は頭を下げる。
「覚えておいてください。約束は守らねばなりません。しかし、たとえ約束が破られても、母の愛は消えはしないのです」
◇ ◇ ◇
【三】東南アジアの夜――ナーガの娘の話
ここはカンボジア、トンレサップ湖のほとり。僧侶が、村人たちに語りかける。
「今夜は我らが国の始まりの話をしましょう。ナーガの王女と、インドから来た王子の話を」
「ナーガ? あの蛇の神さまの?」
「そうです。ナーガは水を司る神々。この大地の下、水の世界に王国を築いている。その王女が、人間の王子と出会ったのです」
僧侶は湖面を見つめる。
「昔々、インドからカウンディンニャという名のバラモンがやってきました。彼は夢のお告げに従い、船に乗ってこの地を目指したのです」
「なぜこの地に?」
「夢の中で、弓を授かったのです。『この弓を持って東へ行け。お前の王国がそこにある』と」
僧侶は手を広げる。
「カウンディンニャが船でこの地に近づくと、一艘の小舟が近づいてきました。乗っていたのは、それはそれは美しい娘。彼女こそナーガ族の王女、ソーマでした」
「人間の姿だったの?」
「ナーガは水の中では蛇の姿ですが、陸に上がると人間の姿になれるのです。ソーマ王女は父王の使いで海を見回っていたところ、見知らぬ船を見つけたのです」
僧侶の声が穏やかになる。
「カウンディンニャは弓を構えました。敵かもしれないと思ったのです。しかし、矢を放つと、それは王女の小舟を貫いた。舟は沈み始め、王女は波間に投げ出された」
「大変!」
「カウンディンニャは慌てて王女を助け上げました。濡れた黒髪、透き通るような肌、深い瞳。王子は一目で恋に落ちました。王女もまた、勇敢で優しい王子に心を奪われたのです」
僧侶は微笑む。
「二人は結婚を望みましたが、王女は水の世界の住人、王子は陸の人間。どうすればよいのか」
「ナーガの王さまが怒ったの?」
「いいえ。ナーガ王は娘の幸せを願いました。そして不思議な力を使い、海の水を飲み干したのです。すると、海の底から広大な土地が現れました。これがカンボジアの大地です」
村人たちがどよめく。
「ナーガ王は言いました。『この土地をお前たちにあげよう。ここで王国を築きなさい。そして私の孫たちが、この地を治めるのだ』と」
「それがクメールの始まり……」
「そうです。カウンディンニャ王とソーマ王女の子供たちが、私たちの祖先です。だから私たちクメールの民は、ナーガの血を引いているのです」
僧侶は寺院の方を指さす。
「アンコールの寺院を見てごらんなさい。欄干には必ずナーガが彫られているでしょう? 七つの頭を持つ大蛇が。あれは私たちの母方の祖先への敬意なのです」
「ナーガの王女は、その後どうなったの?」
「ソーマ王女は陸で暮らし、子供たちを育て、やがて静かに水の世界へ帰っていったと言われています。しかし、その魂は今もこの土地を守っている。トンレサップ湖の水が豊かなのは、ナーガの祝福があるからなのです」
僧侶は手を合わせる。
「覚えておきなさい。私たちは二つの世界の子供です。陸の知恵と、水の力。どちらも私たちの中に流れている。だから私たちは、水を敬い、大地を耕し、二つの世界の調和の中で生きていくのです」
◇ ◇ ◇
【四】お話の旅
さて、ここで少し立ち止まろう。
今、私たちは三つの夜を見てきた。スコットランドの夜。フランスの夜。東南アジアの夜。バラバラの場所で、バラバラの言葉で、バラバラの人々が語った物語。でも、なんだか似ていなかっただろうか?
水の世界からやってきた花嫁。人間の夫との結婚。子供の誕生。そして、別れ。
セルキーは皮を見つけて海に帰った。
メリュジーヌは蛇の姿を見られて空へ消えた。
ナーガの王女は役目を終えて水の世界へ戻った。
方法はさまざまだ。しかし、どの物語にも共通するものがある。
異類の妻は、愛する夫と子供を残して去っていく。
しかし、子供たちは残る。その血は受け継がれる。
そして不思議なことに、その子孫はしばしば王家となり、民族の祖となる。
セルキーの子供たちはアザラシの守護を受け、海の民となった。
メリュジーヌの子孫はリュジニャン家として繁栄し、王冠を戴いた。
ナーガの血を引く者たちは、クメール王国を築き上げた。
異類との婚姻は、悲しい別れで終わる。
しかし同時に、新しい命の始まりでもある。
そして日本にも、そんな物語がある。
海神の娘が陸の王子と結ばれ、子を産み、海へ帰っていった物語。その子孫が、やがて初代天皇となるまでの物語。
今、私たちは日本の夜に向かう。豊玉姫と、その愛の物語へ。
◇ ◇ ◇
【五】日本の夜――豊玉姫
ここは日向の国。海辺の村。語り部が、火を囲む人々に語りかける。
「豊玉姫の話をしよう。海から来た花嫁の話を」
◆
昔、ニニギという神が天から降りてきた。コノハナサクヤヒメという美しい娘と結ばれ、三人の子が生まれた。
長男は海幸彦。海で魚を獲ることを生業とした。
末の弟は山幸彦。山で獣を狩ることを得意とした。
ある日、山幸彦は言った。
「兄さん、たまには道具を取り換えてみないか」
海幸彦は渋ったが、弟に押し切られた。
◆
山幸彦は兄の釣り針を持って海に出た。しかし、一匹も釣れない。それどころか、大切な釣り針を失くしてしまった。
兄は怒った。
「元の釣り針を返せ」
山幸彦は自分の剣を溶かして千本の釣り針を作った。しかし兄は受け取らない。
「元の針でなければ駄目だ」
困り果てた山幸彦が海辺で泣いていると、塩椎神という老人が現れた。
「海神の宮に行きなさい。きっと力になってくれるだろう」
老人は竹籠の船を作り、山幸彦を乗せて海に沈めた。
◆
気がつくと、そこは海の底だった。
光り輝く宮殿。珊瑚の柱。真珠の壁。庭には魚たちが泳ぎ回っている。
山幸彦は宮殿の門前にある桂の木に登り、様子をうかがった。
すると、侍女が水を汲みに来た。山幸彦は首にかけていた玉を口に含み、器の中に吐き入れた。玉は器にくっついて離れない。
侍女は困って、器をそのまま主人に差し上げた。
◆
器を受け取ったのは、海神の娘、豊玉姫だった。
玉を見て、不思議に思った豊玉姫が門前に出ると、そこには見たこともない美しい若者がいた。
二人の目が合った瞬間、心が通じ合った。
豊玉姫は父である海神に告げた。
「門前に、たいそう麗しい方がいらっしゃいます」
海神は山幸彦を招き入れ、厚くもてなした。そして娘と結婚させた。
◆
山幸彦は海の宮で三年を過ごした。
豊玉姫との暮らしは穏やかで幸福だった。しかし時折、山幸彦は深い溜息をついた。
豊玉姫は気づいていた。この人は、故郷を思っている、と。
海神も気づいた。ある日、山幸彦に言った。
「お前が溜息をつくのは、兄の釣り針のことだろう」
海神は魚たちを集め、尋ねた。すると鯛が「喉に針が刺さって苦しんでいます」と答えた。針が見つかった。
海神は山幸彦に針を渡し、こう教えた。
「この針を兄に返すとき、『貧鉤』と唱えてから渡しなさい。そして潮満珠と潮乾珠を授けよう。これで兄を従わせることができる」
◆
山幸彦は故郷に帰ることになった。
別れ際、豊玉姫は言った。
「私はすでに身籠っております。産む時が来たら、必ず海辺に参ります。どうか産屋を作ってお待ちください」
そして、こう付け加えた。
「ただし、お願いがあります。私が子を産むとき、決して中を覗かないでください。どうか、この約束を守ってください」
山幸彦は約束した。
◆
山幸彦は故郷に戻り、海神に教わった通りにして、兄の海幸彦を従わせた。
やがて約束の時が来た。
嵐の夜、荒波を越えて豊玉姫がやってきた。妹の玉依姫を連れて。
山幸彦は急いで産屋を建てた。しかし、鵜の羽で屋根を葺き終える前に、豊玉姫は産気づいてしまった。
産屋に籠った豊玉姫。
外で待つ山幸彦。
「見てはなりません」という言葉が、頭の中で繰り返される。
◆
しかし、山幸彦は我慢できなかった。
妻が苦しんでいる。何が起こっているのか見たい。いや、見なければならない。
そっと隙間から覗いた。
そこにいたのは、八尋もある大きなワニだった。
身悶えしながら、子を産もうとしている。
山幸彦は驚き、思わず後ずさった。
◆
豊玉姫は気づいた。
見られた。本当の姿を。
子が生まれた。元気な男の子だった。
しかし豊玉姫の心は、深い恥辱に沈んでいた。
「見るなと申し上げたのに」
彼女は子を産屋に残し、海辺へ向かった。
山幸彦が追いかけた。
「待ってくれ。行かないでくれ」
豊玉姫は振り返って言った。
「私は海と陸を結び、永遠にあなたと通い合おうと思っていました。しかし、私の姿を見て恥をかかせた。もう、あなたのもとにはいられません」
そして波の中へ消えていった。海と陸を結ぶ道を、閉ざして。
◆
残された子には名がつけられた。
鵜葺草葺不合命。
「鵜の羽で葺き終えないうちに生まれた」という意味の名。
豊玉姫は海に帰った。しかし、残してきた子のことが気がかりだった。
彼女は妹の玉依姫を陸に送った。子の乳母として。
玉依姫は甥を育て、やがてその妻となった。
二人の間に四人の子が生まれた。
その末の子が、神倭伊波礼毘古命。
のちの神武天皇である。
◆
山幸彦は生涯、豊玉姫を忘れなかった。
海を見つめては溜息をつき、波の音に耳を澄ませた。
豊玉姫もまた、忘れてはいなかった。
残していった歌がある。
赤玉は 緒さへ光れど
白玉の 君が装ひし
貴くありけり
「赤い玉は緒まで美しく輝くけれど、白い玉のようなあなたの姿こそ、何より貴いものでした」
夫への愛を詠った歌。
海の底から、陸の夫へ贈った歌。
◇ ◇ ◇
【六】重なり合う物語
さて、お気づきだろうか。
豊玉姫の物語の中に、世界中の夜で語られた物語の欠片が、重なり合っているのを。
スコットランドのセルキー。
――海の世界から来た花嫁。本当の姿を見られる(知られる)ことで別離。しかし子供への愛は消えない。
フランスのメリュジーヌ。
――「見るな」の禁忌。見られて去る。しかし子供たちのために戻ってくる。子孫は王家となる。
東南アジアのナーガの王女。
――水の世界の神の娘。人間の王子との結婚。その子孫が王国を築く。
構造は驚くほど似ている。
異類の花嫁が人間の夫と結ばれる。
子供が生まれる。
何らかの理由で別離する。
しかし子孫は残り、王家や民族の始祖となる。
豊玉姫は海神の娘だった。セルキーは海から来た。ナーガは水の世界に住む。
豊玉姫はワニ(サメ)の姿だった。メリュジーヌは蛇の姿だった。ナーガは蛇神だった。
豊玉姫の曾孫は神武天皇となった。メリュジーヌの子孫は王冠を戴いた。ナーガの王女の子孫はクメール王国を築いた。
そして、どの物語でも、母は去っていく。
しかし、子供への愛は消えない。
姿は見えなくなっても、血は流れ続ける。
◇ ◇ ◇
【終】海と陸のあいだで
なぜ人は、異類との婚姻の物語を語るのだろう。
それは、私たちが「境界」を生きる存在だからかもしれない。
海と陸のあいだ。人間と自然のあいだ。この世とあの世のあいだ。
私たちは常に、二つの世界の狭間にいる。どちらにも完全には属せない。だからこそ、二つの世界を結ぶ物語が必要なのだ。
セルキーは海と陸を行き来した。
メリュジーヌは人間と蛇の姿を持った。
ナーガの王女は水の世界と地上を結んだ。
豊玉姫は海と陸を、神と人を結ぼうとした。
彼女たちは去っていった。約束が破られたから。本当の姿を見られたから。あるいは、役目を終えたから。
しかし、完全に断たれたわけではない。
セルキーはアザラシとなって家族を見守った。
メリュジーヌは夜ごと城に戻り、子供たちに乳を与えた。
ナーガの祝福は今もカンボジアの水を豊かにしている。
豊玉姫は歌を残し、妹を送り、血脈を繋いだ。
別れは終わりではない。
形を変えた繋がりの始まりなのだ。
今夜、あなたが眠りにつく前に、思い出してほしい。
私たちの中には、海の記憶が流れている。水の世界から来た遠い祖先の血が。
だから私たちは海に惹かれる。波の音に心が安らぐ。水に触れると懐かしさを覚える。
もしいつか、あなたが愛する人の「本当の姿」を見たなら。
驚かないでほしい。
恐れないでほしい。
その姿もまた、あなたが愛した人の一部なのだから。
おやすみなさい。
よい夢を。
(了)
==========================
【解説編】へ続く
本編で語られた各地の神話と、日本神話との学術的な対応関係、
一次資料からの引用、研究者による異論、参考文献については、
解説編をご参照ください。
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