死して実る女神 物語編
【序】
食べものには、物語がある。
あなたが今日、茶碗に盛った白い米。畑から掘り出した芋。海から引き揚げた魚。それらはどこから来たのか。どうして私たちは、それを食べることができるのか。
世界中の人々が、その問いに答えようとした。そして不思議なことに、遠く離れた土地で、驚くほど似た答えにたどり着いた。
誰かが死んだのだ、と。
神さまが殺されて、その身体から食べものが生まれたのだ、と。
それは残酷な話に聞こえるだろうか。でも、よく考えてみてほしい。種は地に落ちて死ななければ、芽を出さない。稲は刈り取られなければ、米にならない。私たちが生きるためには、何かが死ななければならない。
古代の人々は、それを知っていた。だから、食べものの起源を「死」と結びつけて語った。そこには深い感謝と、かすかな罪悪感と、生きることの重さへの畏れがあった。
これは、そんなお話の旅についての物語。世界中の夜で語られた断片が、ひとつの島国で出会い、ひとりの殺された女神になるまでの。
◇ ◇ ◇
【一】インドネシアの夜――ハイヌウェレの話
ここはセラム島。インドネシアの東の果て。ココヤシの木が月明かりに揺れている。波の音が遠く聞こえる。焚き火の煙が夜空にのぼっていく。
長老が、火を囲む若者たちに語りかける。
「マロ踊りの夜が近い。だから、この話をしておこう。ハイヌウェレの話を」
「ハイヌウェレ? ココヤシの枝、という意味ですか」
「そうだ。昔、アメタという男がいた。ある日、猪を追って森に入り、不思議なココヤシの実を見つけた。夢のお告げに従ってそれを植えると、大きなヤシの木が育った」
「それで?」
「ヤシの花を取ろうとして、アメタは指を切った。血が花に滴り落ちた。すると――」
長老は火を見つめる。炎が揺れる。
「花から少女が生まれた。三日で娘になった。アメタはその子をハイヌウェレと名付け、自分の娘として育てた」
「血から生まれた子……」
「ハイヌウェレは不思議な娘だった。彼女が用を足すと、出てくるものは糞ではなく、中国の陶器や銅鑼や、この島では手に入らない宝物だった。アメタはそれを売って、たちまち金持ちになった」
若者たちがざわめく。長老は続ける。
「やがてマロ踊りの季節が来た。九夜続く祭りだ。ハイヌウェレは毎晩、踊りの輪の中心に立って、自分の身体から取り出した宝物を村人たちに配った」
「それは……ありがたいことでは」
「最初はな。だが、日が経つにつれて、村人たちは気味悪がるようになった。どこからそんなものを出すのか。あの娘は人間ではないのではないか」
「……」
「九日目の夜。村人たちはあらかじめ穴を掘っておいた。踊りの最中に、ハイヌウェレを穴に突き落とし、土をかけて踏み固めた。彼女は生き埋めにされて死んだ」
火がパチリと音を立てる。
「帰ってこない娘を探して、アメタは踊り場を掘り返した。死体を見つけると、彼はそれを切り刻んで、あちこちに埋めた。すると――」
「すると?」
「埋めた場所から、様々な種類の芋が生えてきた。ヤムイモ。タロイモ。それまでこの島になかった作物だ。それ以来、芋は私たちの主食になった」
長老は若者たちを見回す。
「私たちが芋を食べるとき、それはハイヌウェレの身体を食べているのだ。彼女は死んで、私たちを生かしている。だからマロ踊りの夜には、彼女を思い出さなければならない」
波の音がする。ココヤシが風に揺れている。
◇ ◇ ◇
【二】北米の夜――トウモロコシの母の話
ここはアパラチア山脈のふもと。チェロキーの村。秋の夜、収穫祭の前夜。
焚き火の周りに子供たちが集まっている。おばあちゃんが静かに語り始める。
「セルの話をしよう。トウモロコシの母の話を」
「セルって、トウモロコシのこと?」
「そうだよ。私たちの言葉で、セルはトウモロコシを意味する。そしてそれは、最初の女の名前でもあるんだ」
おばあちゃんは夜空を見上げる。星がたくさん見える。
「昔、カナティという狩人と、その妻セルがいた。二人には息子がいた。カナティは毎日狩りに出て、必ず獲物を持って帰ってきた。セルは毎日、蔵から穀物を持ってきて、料理を作った」
「幸せな家族だったんだね」
「そうだった。でも、息子たちは不思議に思った。父さんはどうやって毎日獲物を取ってくるのだろう。母さんはどこから穀物を持ってくるのだろう」
「気になるよね」
「ある日、息子たちはセルの後をつけた。蔵の隙間から覗いた。すると――」
おばあちゃんの声が低くなる。
「セルは蔵の真ん中に立って、籠を前に置いた。そして自分のお腹をこすった。すると籠の中にトウモロコシが落ちた。脇の下をこすると、豆が落ちた」
「えっ……」
「息子たちは恐ろしくなった。『母さんは魔女だ。あんなものを食べていたら、僕たちも呪われる』。二人は相談して、母を殺すことにした」
子供たちが息を呑む。
「セルは息子たちの考えを知っていた。でも、逃げなかった。息子たちに言った。『私を殺したら、私の身体を畑に引きずりなさい。血が落ちた場所を、七回耕しなさい。一晩中見守りなさい。そうすれば、お前たちは飢えることがない』」
「それで……」
「息子たちは母を殺した。言われた通りにした。夜明けに畑を見ると、セルの血が落ちた場所から、トウモロコシの芽が出ていた。七日後には、実がなっていた」
おばあちゃんは手元のトウモロコシを持ち上げる。絹のような毛がついている。
「見てごらん。トウモロコシの毛は、セルの髪なんだよ。私たちがトウモロコシを食べるとき、それはセルの身体を食べているんだ。彼女は息子たちに殺されて、それでも息子たちを、そしてその子供たち、孫たち、私たちを、ずっと養い続けている」
「……悲しい話だね」
「悲しい。でも、だからこそ、収穫のときには感謝しなければならない。グリーンコーンの祭りでは、セルに祈りを捧げるんだよ」
◇ ◇ ◇
【三】北極の夜――セドナの話
ここは氷の大地。イヌイットの村。オーロラが空に揺れている。
イグルーの中で、狩人が息子に語りかける。
「お前ももうすぐ狩りに出る。だから、セドナの話を知っておかなければならない」
「セドナ? 海の女神?」
「そうだ。海獣を支配する女神。私たちに魚やアザラシを与えてくれる。でも、彼女は最初から女神だったわけじゃない」
狩人は油のランプを見つめる。炎が揺れる。
「昔、セドナという娘がいた。美しい娘だった。たくさんの男が求婚したが、セドナはすべて断った。ある日、カヤックに乗った見知らぬ男がやってきて、セドナを連れ去った」
「誘拐されたの?」
「そうだ。連れて行かれた先で、男の正体がわかった。人間ではなく、海鳥の精霊だった。セドナは騙されたのだ」
「かわいそう……」
「セドナの父親が娘を取り戻しに来た。カヤックに乗せて逃げた。だが、海鳥の精霊たちが追ってきた。嵐を起こした。波が荒れ狂った」
狩人は声を落とす。
「父親は恐ろしくなった。娘を海に投げ込んだ。セドナは船べりにしがみついた。父親は斧で娘の指を切り落とした。一本、また一本」
「……」
「切り落とされた指が海に落ちると、それがアザラシになった。クジラになった。セイウチになった。セドナは海の底に沈んでいった」
オーロラの光がイグルーの入り口から差し込む。
「今、セドナは海の底に住んでいる。切り落とされた指から生まれた海獣たちを支配している。私たちが海獣を捕れるかどうかは、セドナの機嫌次第だ」
「どうすればセドナは機嫌をよくしてくれるの?」
「感謝することだ。そして、禁忌を守ること。海獣を殺したら、その魂に感謝を捧げること。そうすれば、セドナは海獣を送ってくれる」
狩人は息子の肩に手を置く。
「忘れるな。私たちが食べるものは、すべてセドナの身体の一部だ。彼女は苦しんで、裏切られて、それでも私たちを養っている。だから、感謝を忘れてはならない」
◇ ◇ ◇
【四】お話の旅
さて、ここで少し立ち止まろう。
今、私たちは三つの夜を見てきた。インドネシアの夜。北米の夜。北極の夜。バラバラの場所で、バラバラの言葉で、バラバラの人々が語った物語。でも、なんだか似ていなかっただろうか?
殺された女性。その身体から生まれる食べもの。殺した者たちは、彼女の身体を食べて生きていく。そこには感謝があり、罪悪感があり、生きることへの畏れがある。
これは偶然だろうか? それとも、お話が旅をしたのだろうか?
ドイツの学者イェンゼンは、こうした神話を「ハイヌウェレ型」と名づけた。芋や穀物を栽培する人々の間に、驚くほど似た話が広がっている。インドネシアから、ポリネシアから、アメリカ大陸から。そして――日本から。
古事記が書かれた712年。その何千年も前から、人々は食べものの起源について語ってきた。その物語は、海を渡り、山を越え、世代から世代へと伝えられてきた。
そして今、私たちは日本の夜に向かう。すべてのお話が合流する場所へ。
◇ ◇ ◇
【五】日本の夜――殺された食物の女神
ここは高天原。神々の住む天上の世界。
アマテラスが弟のツクヨミに命じた。
「葦原の中つ国に、ウケモチという神がいると聞く。様子を見てきなさい」
ツクヨミは命じられるままに、地上へ降りた。
◆
ウケモチの館は、豊かな土地の真ん中にあった。女神は客人を喜んで迎えた。
「まあ、高天原からお客様とは。どうぞお入りください。ご馳走を用意いたしましょう」
ウケモチは陸に向かって口を開いた。すると、口から米飯が出てきた。海に向かって口を開くと、魚が出てきた。山に向かって口を開くと、毛皮の動物が出てきた。
女神はそれらを丁寧に調理して、美しい器に盛りつけ、ツクヨミの前に並べた。
「どうぞ、お召し上がりください」
◆
ツクヨミは怒った。
「なんということだ。口から吐き出したもので、私をもてなそうというのか。穢らわしい!」
言うが早いか、ツクヨミは剣を抜いた。ウケモチを斬り殺した。
◆
高天原に戻ったツクヨミが報告すると、アマテラスは激怒した。
「お前は悪しき神だ。お前の顔など二度と見たくない」
それ以来、太陽と月は一日一夜を隔てて住むようになった。昼と夜が分かれたのは、このときからだという。
◆
アマテラスは天熊人を遣わして、ウケモチの様子を見に行かせた。
女神は死んでいた。
しかし、その身体からは不思議なものが生まれていた。
頭からは牛と馬が。
額からは粟が。
眉からは蚕が。
目からは稗が。
腹からは稲が。
陰からは麦と大豆と小豆が。
天熊人がすべてを持ち帰ると、アマテラスは喜んだ。
「これこそ、民が生きていくために必要なものだ」
女神はその種を田畑に蒔いた。稲は実り、麦は穂を垂れ、蚕は絹を紡いだ。
殺された女神の身体から、この国の五穀が生まれた。
◇ ◇ ◇
【六】重なり合う物語
さて、お気づきだろうか。
ウケモチという女神の物語の中に、世界中の夜で語られた物語の欠片が、重なり合っているのを。
インドネシアのハイヌウェレ。
――身体から宝物を出す少女。殺されて、死体から芋が生まれる。
北米のセル。
――身体から穀物を出す母。息子に殺されて、血からトウモロコシが生まれる。
北極のセドナ。
――裏切られ、切り刻まれた娘。その身体から海獣が生まれる。
そしてウケモチ、あるいはオオゲツヒメ。
――口から食物を出してもてなす女神。穢れと見なされて殺され、身体から五穀が生まれる。
構造は驚くほど似ている。
女神が自分の身体から食物を生み出す。
それを「穢れ」と見なした者が、女神を殺す。
殺された女神の身体から、人々の主食が生まれる。
なぜ、こんなにも似た話が、世界中にあるのだろう。
◇ ◇ ◇
【終】死と食と、感謝と
食べることは、殺すことだ。
米を食べるとき、私たちは稲を殺している。魚を食べるとき、私たちは魚を殺している。芋を食べるとき、私たちは芋を殺している。
古代の人々は、それを知っていた。知っていたから、食べもののの起源を「殺された神」に求めた。私たちが生きるためには、誰かが死ななければならない。その重さを、物語に託して語り継いだ。
ハイヌウェレは殺された。セルは殺された。セドナは切り刻まれた。ウケモチは斬られた。
でも、彼女たちは恨まなかった。死んでなお、人々を養い続けた。
だから私たちは、食べるときに感謝する。手を合わせて「いただきます」と言う。それは「あなたの命をいただきます」という意味だ。殺された女神への、静かな祈りだ。
お話は旅をする。インドネシアから、アメリカから、北極から、日本へ。何千年もの時を超えて、人々は同じことを語り続けてきた。
生きることは、誰かの死によって支えられている。
だから、感謝を忘れてはならない。
今夜、あなたが眠りにつく前に、今日食べたものを思い出してほしい。それはすべて、殺された女神の身体なのだから。
おやすみなさい。
よい夢を。
(了)
==========================
【解説編】へ続く
本編で語られた各地の神話と、日本神話との学術的な対応関係、
一次資料からの引用、研究者による異論、参考文献については、
解説編をご参照ください。
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