第一章:黄金の親指と家族の温もり

第1話 鉄の音、愛の予感

 1940年代後半、インディアナポリスの空気は、重い鉄の匂いと終戦直後の熱気に満ちていた。


市街地から少し外れた場所にある小さな自動車部品工場。


天井から吊るされた裸電球は、電圧が安定しないのか、時折思い出したようにジジッと音を立てて明滅している。


その頼りない光の下で、ウェス・モンゴメリーは旋盤に向かっていた。


​ キィィィィン――。


​ 鋭い金属音が耳をつんざく。


削り出されたばかりの歯車が、熱を帯びて青白く光っている。


厚手のデニム地のオーバーオールは、元の色が判別できないほど真っ黒な油に染まり、ポケットに突っ込んだボロ布は汗と鉄粉を吸って重く垂れ下がっていた。


​「……ひどい音だ。耳が腐りそうだぜ、ウェス」


​ 隣のラインで作業していたジャックが、ドスンと重い部品を床に放り投げた。


彼は煤(すす)で汚れた顔を歪め、深くため息をつく。


ちょうどその時、工場の隅に置かれた古いラジオから、奇跡のように柔らかなメロディが流れ出した。


ライオネル・ハンプトン楽団の『スターダスト』だ。


ヴィブラフォンの澄んだ音が、殺伐とした工場の空気を、これから訪れる夜の美しい場所へと連れ去っていく。


​ ウェスは作業の手を止め、油で汚れた布で額の汗を拭った。


顔に黒い筋がついたが、彼は気にせず、白い歯を見せてニカッと笑った。


​「そうかい? でもジャック、この旋盤の回転音をよく聴いてみなよ。一定のリズムを刻んでる。ハンプトンのヴィブラフォンに負けないくらい、いいビートだと思わないか?」


​「おめでてえな。お前、頭まで鉄の粉が詰まってんのか」


​ ジャックは吐き捨てるように言ったが、ウェスの笑顔につられたのか、わずかに肩の力が抜けたようだった。


ウェスはそのチャンスを逃さなかった。


​「そういえばジャック、聞いたよ。メアリと結婚するんだって? おめでとう」


​ ジャックの動きが止まった。


彼は自分の黒く汚れた大きな手を見つめ、力なく首を振った。


​「バカ言うなよ。この工場の給料を見たことあるか? 家族を養うなんて、一生かかったって無理だ……。メアリにはもっといい暮らしをさせてやる男が必要なんだよ」


​ ウェスは一歩近づき、自分の指をじっと見つめた。 


油と鉄で黒く汚れ、爪の間まで真っ黒だ。


しかし、その指先はわずかに震え、頭の中で鳴り響くスターダストのリズムを刻んでいた。


​「そうか。じゃあジャック。今度メアリに会ったら、先におめでとうって伝えておくよ。お前がもう、彼女を幸せにすると決めたってな」


​「おい、変なこと言うなよ! ウェス、勝手なことを……」


​ ジャックが顔を赤くして抗議するが、ウェスはもう笑いながら自分の旋盤に戻っていた。


​「決めたんだよ、お前は。俺だって決めてる。この油にまみれた手が、いつか本物の音楽を掴むんだってな」


​ 終業を告げる重苦しいベルが鳴り響く。


ウェスはオーバーオールを脱ぎ捨てると、誰よりも早く工場の出口へ向かった。


家には愛するセレーンと、守るべき小さな命が待っている。  


そして何より、押し入れの隅で彼を待っている「六本の弦」がある。


​ 工場の門を出たウェスの目に、インディアナポリスの夕焼けがオレンジ色に輝いて見えた。


その光は、彼が家族と奏でる未来の時間を祝福するように、どこまでも温かく広がっていた。





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インディアナポリスの静かな朝に 沢 一人 @s-hitori

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