インディアナポリスの静かな朝に
沢 一人
プロローグ
1968年6月15日。インディアナポリスの朝は、あまりに静かだった。
ソファに深く沈み込んだウェスの顔には、苦悶の跡はなかった。
驚いたように少しだけ見開かれたその大きな瞳は、窓の外に広がる初夏の青空を映している。
「ウェス、あなた……?」
セレーㇴの震える声が、リビングの空気を震わせた。
彼女は恐る恐る、夫の右手に触れた。
世界中のジャズ・ギタリストが魔法の杖のように崇(あが)めた、その親指。
そこには、数十年間にわたる過酷な労働と、終わりのない練習が刻んだ、岩のように硬いタコがあった。
傍らのギブソンL-5が、差し込む陽光を跳ね返している。
主を失ったその楽器は、これ以上ないほど雄弁に沈黙していた。
七人の子供たちの足音が廊下に響く。
いつもなら「パパ!」と飛びついてくるその無邪気な声が、今日だけはウェスの耳に届かない。
彼は、やり遂げたのだ。
工場の旋盤を回し、夜のクラブで指を血に染め、家族のために、ただひたすらに弦を震わせ続けた四十五年。
ウェスの表情は、まるで最後の一音を完璧に弾き終え、観客の拍手が始まる直前の、あの静謐(せいひつ)な一瞬に閉じ込められたかのようだった。
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