第3話 キャットウォーク付きの一戸建て

 こうして、わたしは彩子ママにあの子のことをすべてしゃべった。


 わたしが小学生の時、保護猫だったあの子がうちに来たこと。

 シャーシャー猫だったのがおやつだけは喜んで食べて、食べ終わったら自らさっさとケージに戻っていっていたこと。

 ケージから出て自由に動けるようにしたら、子供部屋のわたしの部屋を自分の居住地としてくれたこと。

 わたしの勉強の邪魔ばかりするので、受験勉強が大変だったこと。


 あの子のためにペット可物件を探し続けたこと。

 猫は家に付くというから、引っ越しさせるのは可哀想ではないかと思ったが、新居にも何のこともなく馴染んだこと。

 わたしが仕事に行っている間はずっと出窓から家の外を眺めているらしく、大家さんが「可愛いわね」と言ってくれたこと。


 がんが見つかったこと。

 抗がん剤治療や摘出手術をせず、痛み止めと栄養剤だけで様子を見たけれど、その選択ははたして正しかったのか?


「もっと働けばよかったのかも」


 わたしはママの前で泣いた。


「あの時手術代を見て一瞬でも払えるかなって思っちゃった自分が本当に嫌いです。猫のためなら何でもすべきでした。バイトでも何でも、仕事を増やすべきだったんです。ソープだってデリヘルだって、できることはあったかもしれないのに」


 そんなわたしの告白を聞いたママが、静かな声で言った。


「でも、その子はあなたの足元で息を引き取ったんでしょう?」

「そうです。体が痛かったのかもう何週間もベッドの上に乗ってくることなんてなかったのに、久しぶりにベッドの上で休んでたみたいで、朝起きたらもう……」

「どうしてもまたあなたと一緒に寝たかったのね」


 涙があふれて止まらない。


「あなたと一緒にいたかったのね。あなたのぬくもりや匂いを感じて休みたかったのね。若い頃のように」


 しゃくりあげるわたしを、ママは優しい瞳で見つめている。


「本当にあなたが仕事を増やして働いて医療費を稼ぐことは幸せにつながることだったのかしら。あたしがその子だったら、あなたにもっと家にいてほしかったと思うわ。外に働きになんか出ないで、ずっと家で一緒にごろごろしていてほしかったと思うわ」

「ううー……」

「猫はね、死ぬのは怖くないの。一番怖いのは居心地のいい場所を失うことなのよ」


 ずっと出窓に座って外を見ていたあの子の姿が浮かぶ。


「あなたのそばが一番居心地が良かったというのなら、その子は死ぬまでそこにいられて幸せだったんだと思うわ」


 ママはゆったりした声で話を続けた。


「猫は死ぬ時に人間の心に猫の形の穴を開けていくというのよ。その穴は猫でしか埋まらないの」


 そして、肉球で、すっ、とカウンターの上に一枚のチラシを差し出した。

 わたしはそのチラシを手に取った。

『保護猫譲渡会』というタイトルと、近所の公園の住所、来月の日付が書かれていた。


「お別れがつらすぎると、次の子をお迎えするのにも気が引けちゃうかしら」


 チラシの写真をしげしげと眺める。どの子も本当に可愛い。猫はなぜか他人の家の子でも可愛い。もちろん自分の家の猫が一番だけれど、たまに浮気して猫カフェに行くこともあったのを思い出す。


 猫は、人間の心に猫の形の穴を開けていく。


「でも……」


 わたしは苦笑した。


「築四十年の狭い賃貸で、わたしはフルタイム残業ありで働いて。もっと条件が良かったらもっと自由で快適な暮らしをさせてあげられたんんじゃないかと、後悔することがあるんです。だから――」


 その時、ドアベルが鳴った。

 振り向いてドアのほうを見ると、三十歳前後の若い男性が入ってくるところだった。どうやらサラリーマンのようで、ちゃんとしたスーツを着ており、ネクタイを少し緩めていた。すでに一杯ひっかけてきたのか、頬が赤らんでいる。


「あら、高宮たかみやくん。いらっしゃい」


 どうやら顔馴染みの客のようだ。ママがそう言って上半身を起こし、お冷のためのグラスを手に取った。

 

 高宮、と呼ばれた青年が、カウンターに近づいてくる。長田、と呼ばれたダンディが、「お前もそこ座りな」と言ってわたしの隣を指さす。


「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」


 高宮青年はどこの席に座ろうか少しためらったようだったが、結局わたしの隣に腰をおろした。


「僕でよければ話聞きますよ」


 わたしはうつむいてママが入れてくれたレモンサワーのグラスを両手で包んだ。


「ごめんなさい。なんだか悲しくなっちゃうので、同じ話を二回するのは、ちょっと」

「二回? ああ、ママがもう一回聞いた後なのか。じゃあ僕じゃ力不足ですね」


 ママがお冷のグラスとおしぼりを高宮青年の前に置きながら「そんなことないわよね」と言った。


「そうだ、唯香ちゃん、今カレシいる?」


 わたしはきょとんとした顔で答えた。


「いないです。ずっと猫のことばかり考えてたので、人間の男にはあんまり興味がありませんでした」

「今も?」

「そうですね……」


 思わず苦笑してしまう。


「虹の橋を渡った猫のことを考え続けているよりは、人間のカレシでも作って穴埋めしたほうがいいのかも」


 すると突然、高宮青年が立ち上がった。


「ええっと、唯香、さん?」

「あ、はい」

「猫ちゃんが亡くなったんですか」

「はい、そうなんです。先月まで一緒に暮らしていた猫が息を引き取ってしまって」

「また猫と暮らす予定はありますか」

「いや、まだ決まっては――」

「僕と猫と暮らしましょう!」


 彼がわたしの手をつかんだ。大きな温かい手でわたしの手を包み込む。不思議と不快ではなかった。酔った勢いで女の手をつかむような男だが、なぜか不思議と彼の誠実さが伝わってくるような気がした。


「僕もこの前一緒に暮らしていた猫が虹の橋を渡ってしまって、今後どうしようかずっと悩んでたんです! それでママにいろいろ相談して……」

「はあ……」

「僕の将来の夢は」


 あまりにも真剣なので、わたしは彼の話に聞き入ってしまった。


「妻と子供と猫と暮らすことなんです! だから、猫アレルギーじゃなくて猫が好きて僕と結婚してくれそうな女性を探してるんです。前のカノジョが猫嫌いで、仕方なく別れることになってしまって……当時家にいた猫は亡くなったけど、その猫嫌いの女性とよりを戻すことは考えられなくて……」


 初対面の女によくそこまでべらべら自分の来歴を語れるな、と思ったが、わたしはちょっと笑ってしまった。そういえば、わたしも大学生の時にいい雰囲気になった男性が猫アレルギーで結局交際に発展しなかったことを思い出した。


「僕、がんばって働いてキャットウォーク付きの一戸建て買うんで! 結婚を前提に付き合ってください! よろしくお願いします!」


 そう言って頭を下げる彼がなんだかおかしくてわたしは思わず「はい」と答えてしまった。


「わかりました。将来猫を飼うことを前提に、お付き合いを始めましょう」


 ママと長田さんが「やったあ」とガッツポーズをした。


「不思議な出会いもあるもんですね。今日わたしがこの店にふらっと入らなかったら、なかった出会いですよね」

「す、すみません、僕、こんな、フルネームも知らない人に急にプロポーズまがいのことを……!」

「いえいえ、わたしたちのような人間にとってお付き合いする相手に求める一番の条件って、猫アレルギーじゃないことじゃないですか?」


 わたしは小さく笑った。彼も、小さく笑った。


 キャットウォーク付きの一戸建ての家で猫がだらだらとへそ天している姿が、わたしの脳内に浮かんだ。


 ママの尻尾が揺れた。


「うふふ。めでたしめでたし」




<おしまい>






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スナック三日月で待ってるわ ~セクシー猫又の人生相談所~ 日崎アユム(丹羽夏子) @shahexorshid

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