第2話 白いもふもふのママ!
わたしも、わたしの実家の面々も、夜遊びをしたことがない。
当然、自宅に猫がいるからだ。
黒いあの子以外にも、実家には現時点で三匹の猫がいて、誰かしら家にいてその子たちのお世話をせねばならない。専業主婦の祖母やフリーランスの姉の在宅時間が長いことを考えると、完全に二十四時間三百六十五日誰かが家にいる状態だと思う。特に猫たちの食事の準備とトイレの掃除がある人間の夕飯後の時間は、よっぽど会社などの大事な付き合いの飲み会でない限りは行かないのが鉄則になっていた。わたしはそれを苦に思ったこともなかった。猫のほうが大事だからだ。
したがって、スナックというところがどんなところか、わたしは知らなかった。ただカウンターにママと呼ばれる女性がいて、お酒を出す、というイメージしかなかった。
ママにあの子がいないさみしさを愚痴らせてもらいつつ、やけ酒をしよう。
扉の向こう側には、ほぼ予想どおりの店内が待っていた。
右手にバーカウンターがあって、その背後の棚には日本酒や焼酎の瓶が並んでいる。バーカウンターの客席側には赤い椅子が六つある。
左手にはテーブル席がある。テーブルは全部で三席で、それぞれにやはり赤いベルベットのレトロな椅子が四つずつセットされている。
テーブル席のひとつは年配の男女グループで埋まっていた。
カウンター席には、手前に高齢のダンディな男性が一人座っていた。
わたしが入店したことに気づいたらしく、カウンター席の男性客がこちらを向いた。気づいた、というよりは、待ち構えていた、という感じかもしれない。彼はどう見ても従業員ではないが、わたしを見てにやりと笑って「いらっしゃい」と言った。そして、カウンターの奥のほうに向かって告げる。
「ママ、新しいお客さんだよ」
次の時、彼が声を掛けたほうから「はあい」という少し酒焼けしている女性の声が聞こえてきた。
わたしは思わず目を真ん丸にしてしまった。
カウンターの暗がりから姿を現したママの姿が、ただ人ではなかったからだ。
いや、そもそも、人ではない。
真っ赤なマーメイドドレスに身を包んだ彼女は、全身に白い毛を生やしていた。
丸い頭の上にぴんと立った三角耳、白く長いひげ、薄暗い店内では丸くなっている瞳孔、そしてマーメイドドレスの尻から伸びる二本のサバトラ柄の尻尾――
「猫!?」
百六十センチ弱のわたしと同じくらいの大きさの白猫が、ドレスを着て、二本足で立っている!
「あら、ご新規様ね」
巨大な人型猫が、長い牙をちらちら見せながら言う。その顔が心なしか微笑んで見える。
「おひとり様かしら」
わたしはしばらく呆然とその人型猫を眺めていた。彼女と手前の男性が無言でわたしをじっと見つめ続けているのを見て、しばらく経ってから我に返って「はい」と答える。
「ようこそ、スナック三日月へ。どうぞ、カウンターのお好きな席に座ってちょうだい」
手前の男性が、自分の隣を叩いて「ここに来な」と言った。わたしはおそるおそるそこに座った。人型猫が「いやだわ、
「あの……」
カウンターの下にあったバスケットに仕事用のトートバッグを入れつつ、わたしはカウンターの向こう側にいる大きな猫を見た。彼女は金の虹彩の中の黒い瞳孔でわたしの様子を見つめていた。
「このスナックの、ママ……ですよね?」
「そうよ、あたしがここの店主よ。
「その……、猫なんですか?」
彩子ママが「ふふふ」と笑った。
「そうなの。あたし、いつの間にか猫又になっちゃって。人間にも化けられるようになったから、その姿で接客してもいいんだけど、なんとなくこの姿のほうが気楽なのよね」
ママの尻の後ろで、二本の尻尾がぴんと立っている。
「猫又……なんですか」
「ええ」
すぐには信じられなかったが、目の前には確かに人間サイズで二本足で立っている猫がいるわけで、現実を受け入れるしかない。
「あたし、もうすぐ百歳なんだけど、二十歳過ぎくらいの時かしら、戦後に尻尾が二つに割れてきたのよ。隠して普通の猫として暮らすこともできたんだけど、当時はどこもかしこも焼け野原で、飢えた孤児たちがあたしを焼いて食おうとしていたものだから、なんとか人間に化けて人間社会に溶け込んで」
しかし目の前にいるのは明らかに猫なので溶け込んではいないと思う。
「まあ、あたしの身の上話はいつだっていいのよ」
ママがわたしの目の前に白いおしぼりと氷の浮かぶお冷、お通しの漬物が入った小鉢を置く。
「あなたは何ちゃんとお呼びすればいいかしら? いえ、名乗りたくなかったらそれでもいいんだけどね」
わたしは目の前の展開に圧倒されながら答えた。
「あ……わたしは、
「そう、唯香ちゃん」
ママが目を細める。
「唯香ちゃん、暗い顔してるわよ。なんだかすごく思い詰めているみたい。あたしでよかったら話を聞こうか?」
わたしの心が、少しだけふんわりと軽くなる。
「あなた、今の状態のまま自宅に帰らないほいうがいいわ。家に帰るとつらいことがあるんじゃない? 顔が、帰りたくないよ、って言ってるもの」
「わかるんですか?」
「百年も生きてるからね。人間の考えていることなんて、全部お見通しなのよ」
わたしは鼻で深く息を吐きながらおしぼりを手にした。手を拭いてから、お冷のグラスを取る。一口二口、水を飲む。外はそろそろ冬になろうという頃でちょっと肌寒いのだが、店内は汗をかきそうなほど暖房が効いていたので、冷たい水も苦ではない。
白いもふもふのママが、わたしを見つめてくれている。
「……ママ」
「はあい」
「ちょっと、撫でてもいいですか」
「ふふふ。ちょっとだけよ」
ママが左手を差し出した。わたしの手より少し大きなサイズだったが、ピンク色の肉球がついた、可愛らしい手だった。爪は収納されている。
おそるおそる、両手でママの左手を包み込んだ。
滑らかな毛、弾力のある肉球、何もかも猫のものだ。
もう一ヵ月触っていなかった猫の手だ。
わたしの両目から涙があふれ出した。
ずっと触りたかった手だった。
「ううー……」
わたしはしばらく泣いた。
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