スナック三日月で待ってるわ ~セクシー猫又の人生相談所~
日崎アユム(丹羽夏子)
第1話 未知のことをすべて試してみる
今まで試してこなかったものを全部試してみようと思った。
たとえば、わたしは今までアロマオイルを使ったことがなかった。
心を落ち着かせる作用があると聞いて、オーソドックスなラベンダーのアロマを買った。
ディフューザーで煙を出して、ベッドの上で掛け布団を抱き締めながら、匂いに浸る。確かに少し心が落ち着いた気がする。けれどあくまで、少し、であって、根本解決にはならず、朝が来て目が覚めて匂いが消えていることを確認すると、心は元の落ち着かない状態に戻った。
部屋に花を飾ってみた。
匂いがあって派手な花がいい、と思ったこともあり、思い切って百合の花を買った。花瓶も、落としたら割ってしまいそうな、繊細な模様の入った薄いガラスのものを買った。
ダイニングテーブルの上に百合の花を飾る。華奢な花瓶には水と花が入っている。ひっくり返す者はない。
けれど、わたしの心はやはり慰められなかった。
百合の花はいつの間にか枯れて花びらをテーブルの上に落としていた。わたしは花瓶を埋め立てごみに出した。
旅行に行くことを決意した。
三連休に有給をくっつけて一週間の休みを作り、トルコのイスタンブールに行った。できる限り遠くへ行きたかった。
ヨーロッパでもアフリカでもよかったが、あえてイスタンブールにしたのには、訳があった。
イスタンブールは猫の街とも言われている。街の至るところに外猫がいて、観光客をも恐れずに甘えてくるのだ。
スレイマニエ・モスクの近くのベンチに座っていたら、噂どおり、猫が寄ってきた。あの子とは違う柄の猫だったが、可愛い、と思った。けれどその子を撫でているうちにあの子を思い出して、涙が止まらなくなってしまった。
うちにはかつて、猫がいた。
真っ黒な男の子の猫だった。
実家から連れてきた猫だった。わたしは就職と同時に実家を離れることにしたのだが、どうしてもこの子と離れたくなかったので、無理をして連れ出したのだ。
猫がいると賃貸物件選びに苦労する。
まず、たいていの大家さんはペットを嫌がる。特に猫は壁を引っ掻くと思われているようだ。犬もあまりいい顔はされないが、猫はもっと嫌われている。
それでも根気強く探してなんとか見つけたアパートは、築四十年でかなり古い。
しかも敷金は返さないと言われた。仕方がない、猫が住んだ部屋はクロスを総張り替えしないと次の人に貸せないのだ。猫が壁を引っ掻くかもしれないし、次の住人は猫アレルギーかもしれないから、大家さんは気を遣う。
そんな困難を乗り越えて一緒に暮らし始めて早五年、あの子は病気になった。極端に食事量と活動量が減り、何かおかしいのかも、と思って動物病院に連れていったら、がんが見つかった。
実家にいた頃にはすでに十歳になっていた猫はとうとう十五歳になり、シニア猫という扱いになっていた。獣医さんは、十三歳以上のシニア猫は無理な抗がん剤治療をせず最期の時を自宅でゆっくり過ごすという方針を取るタイプだった。
わたしはさんざん悩んだけれど、一度はその獣医さんに従い、転院を考えなかったことにした。その獣医さんのもとで対症療法的な痛み止めや栄養剤を処方してもらった。
痛みがなくなったからか猫は少しだけ動けるようになったが、がんを取り除いたわけではないので、やはり衰弱していく。その姿を見て、わたしはまたもや悩む。転院すべきか。手術すべきか。
セカンドオピニオンで、別の動物病院で診てもらった。診断はやはり変わらず、余命宣告も今から半年ほどとほぼ同じことを言われた。
そして、それでも手術をするなら、と費用の予算を提示された。
とてもではないが、治る見込みもないのに払える金額ではなかった。
猫の治療費はとにかく高い。保険が利かない薬を買い続けて数ヵ月、わたしの貯金はすでに尽きかけていたのに、こんな手術代なんか払えるわけがない。それでも猫を延命できるなら水商売でも何でもやってと思わなかったわけではないが、シニア猫は麻酔に耐えられるかどうかもわからず、成功率はあまり高くないどころか、命の危険性がある。
わたしはあの子の手術を諦めた。
来る日も来る日もあえて残業した。猫の痛み止めを買い続けるためだ。猫が少しでも楽になるならとがんばった。そして、わたしが帰宅するまで生きていてほしいと職場で祈った。もしわたしが帰る前に冷たくなっていたらと思うと気が気ではなく、仕事でのミスも多かった。わたしもどんどん疲弊していった。
そしてある日の朝、久しぶりにわたしの足元で丸くなって寝ていたあの子の体が、ひんやりしていた。
それが今から一ヵ月前のこと。
激しいペットロスは来る日も来る日もわたしを
猫には精製油がよくないから、自宅でアロマを使ってはいけない。
猫には花粉がよくないから、自宅に花を飾ってはいけない。特に百合は危険だ。
猫がいるのに長期間自宅を空けてはならない。一人暮らしで猫を置いて旅行に行くなんて、猫に何かあったらどうするのか。
そうして自分に禁じてきた事柄をみんな解禁して、猫がいないからこそできることを全部やって自分を慰めようとした。
わたしの実家にはいつも複数の猫がいた。猫は生まれた時からそこにいる存在だったので、猫がいてはできないことはすべて未知の行為だった。
その禁忌を犯してまでしていることに、楽しみが見いだせない。
残業してもしなくてもよくなった。
もちろんお金はないよりあるほうがいい。家に帰っても誰も待ってはいないので、急いで帰る必要はない。
でも、一人で家にいるのがさみしくて、わたしはいつも会社にだらだらと残っては上司に怒られてしまう。
今日は会社を十八時半に切り上げて自宅の最寄り駅まで戻ってきた。駅に着いたのはだいたい十九時過ぎ。夕飯を作る気になれなくて、駅の近くのファーストフードの店でハンバーガーを食べる。
そういえばあの子はフライドポテトが好きだった。テイクアウトして帰ると大騒ぎの大乱闘になるので、わたしはどうしてもポテトが食べたい時は店でイートインしてから帰るようにしていた。フライドポテトは塩と油が猫の体に悪いから。でもその猫はもう家にいないので、今度からはテイクアウトでもいいかもしれない。
がつんと油っこいものを食べて、酔ったわけではないのに千鳥足で歩いて自宅に向かう。
その途中で、ふと、今まで視界に入ってこなかったある通りが目に留まった。
この街の夜を彩る歓楽街、飲み屋街だ。
自宅で待つ猫のために夕飯を出さないといけなかった身では行けなかった、そういう店。飲み会も行かずに過ごしていたあの頃。
ええい、たまには酔っ払ってやる。
そう意気込んで、わたしはその通りに入っていった。
そして何気なく、奥のほうにあった店に目をつけた。
この店を選んだ理由は、出ている看板に月と猫が描いてあって可愛かったから、だけであって、他に理由はない。
スナック三日月。
わたしは重い扉を開けて、その店の中に入っていった。
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