第28話

 あの騒がしい結婚式から、三年が過ぎた。


 季節は巡り、王都にはまた穏やかな春が訪れていた。


 宰相執務室。

 そこは相変わらず、国の心臓部として機能していたが、その風景は以前とは少し様変わりしていた。


「……閣下。この隣国からの通商条約案、第5項の関税率が計算と合わないのですが」


「どれだ? ……ああ、これは向こうの単純な計算ミスだな。突き返しておけ」


「突き返すのは時間が無駄です。こちらで修正案を作成し、『御国の算数教育のレベルを懸念しております』という皮肉たっぷりの添え状と共に送り返しました」


「……ふっ。さすがだな、我が妻は。敵に回したくない」


 執務机には、二つの椅子が並んで置かれている。

 そこに座るのは、相変わらず「氷の宰相」として畏怖されるアレクセイ様と、その妻であり、「影の宰相」とも「炎の女帝」とも噂される私、シャロ・フォン・クロイツ公爵夫人だ。


 私は結婚後も、こうして「補佐官(という名の共同統治者)」として、彼の隣で働いていた。

 もちろん、労働条件は厳守されている。


「ふぁ……。三時ですね」


 時計を見た瞬間、私はペンを置いた。


「休憩にします。今日のおやつは?」


「王都で話題の『ミナの相談所』プロデュース、ストレス解消激辛クッキーと、癒しのハーブティーだそうだ」


「……ミナ、手広くやってますね」


 あれから、ミナ様の「ナルシスト被害者の会・相談所」は大繁盛し、今では多角経営を行う実業家として名を馳せていた。

 先日も「師匠! 今度『ダメ男撃退マニュアル』を出版することになりましたぁ!」と報告に来たばかりだ。


「ジェラ(元殿下)のほうはどうだ?」


 アレクセイ様がクッキーの箱を開けながら尋ねる。


「北の修道院長から定期報告が来ていました。最近は『鏡がないなら水面を見ればいい』と悟りを開き、一日中水溜りを覗き込んでいるそうです」


「……ある意味、大物だな」


「無害なので放置でよいかと。観光名所になりつつあるようですし」


 私たちは苦笑し合いながら、ティータイムを楽しんだ。


 窓の外を見下ろせば、平和な王都の街並みが広がっている。

 私がかつて恐れていた「断罪」や「破滅」の未来は、もうどこにもない。

 あるのは、積み上げられた書類の山と、隣にいる少し過保護な夫だけだ。


「……ねえ、アレクセイ」


「なんだ?」


「私、今でも世間では『悪役令嬢』って呼ばれているみたいですよ」


 先日、夜会に出た時も、令嬢たちが「あの方が、あの王子を地獄に突き落とした……」「微笑み一つで国を動かす魔女……」と噂しているのが聞こえた。


「気にするな。私も『魔王』と呼ばれている」


 アレクセイ様は涼しい顔で紅茶を飲んだ。


「それに、悪役結構じゃないか。おかげで誰も私たちに面倒な相談事を持ち込まない。快適なスローライフだ」


「スローライフの定義が、世間一般とはだいぶズレている気がしますが」


 毎日、国家の重要案件を秒速で処理し、余った時間で全力でダラダラする。

 これが私たちの「スローライフ」だ。


「私は満足しているよ。……君はどうだ、シャロ?」


 アレクセイ様が、真剣な瞳で私を見つめた。

 その瞳の色は、出会った頃の冷たさは消え、今は春の日差しのような温かさを湛えている。


「私ですか?」


 私は少し考えて、口元をニヤリと吊り上げた。


「最高に楽しいですね。ムカつく相手は合法的に論破できますし、欲しいものは手に入りますし、何より……」


 私は身を乗り出し、彼のネクタイを指先で引っ張った。


「私のワガママを全て叶えてくれる、優秀な『共犯者』がいますから」


「……共犯者か。悪くない」


 アレクセイ様は嬉しそうに目を細め、私の手に自分の手を重ねた。


「では、これからも共に悪だくみをしようか。この国を、私たちの住みよい楽園にするために」


「ええ、望むところです。……でも、まずは」


 私は彼の膝の上に、慣れた動作で移動した。


「お昼寝の時間です。……腕枕、お願いしますね」


「仰せのままに、マイ・クイーン」


 アレクセイ様が私を優しく抱き締める。

 その体温に包まれながら、私は心地よい眠りに落ちていった。


 悪役令嬢と言われる前に婚約破棄を叩きつけたら、なぜか氷の宰相閣下に拾われ、溺愛され、国の実権まで握ってしまった。


 そんな私の物語は、これにておしまい。


 でも、私たちの「合理的で甘美な日々」は、これからもずっと続いていくのだ。


 やっぱり、人生は先手必勝に限る。

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