第21話

 アレクセイ様が前に出ると、それだけで檀上の空気が張り詰めた。


 彼は手元の書類――あの日、ジェラルド殿下がサインした『婚約解消に関する合意書』を高く掲げた。


「第三の罪状、『詐欺罪』について。殿下は、この書類が『騙し取られたもの』であり、無効であると主張されていますね?」


 アレクセイ様の声は、マイクを使わずとも会場の隅々まで届くほどよく通った。


 ジェラルド殿下は、ミナ様に振られたショックで青ざめていたが、アレクセイ様の威圧感に気圧されつつも反論を試みた。


「そ、そうだ! 僕は騙されたんだ! シャロが『反省文です』と言って渡してきたから、慈悲の心でサインしてやっただけだ! 中身が『婚約破棄』だなんて聞いていない!」


「ほう。聞いていない、ですか」


 アレクセイ様は眼鏡を指先で押し上げ、冷ややかに殿下を見下ろした。


「つまり殿下は、『書類のタイトルすら確認せずに署名をした』と、ご自身で認めるのですね?」


「うっ……! だ、だから言っているだろう! 僕は王族だぞ? 細々とした文字を読むのは下々の仕事だ! 僕がサインをするというのは、相手への信頼の証なんだ!」


 殿下が胸を張って言い訳をする。


 しかし、その発言は致命的だった。


 会場の貴族たちから、どよめきが漏れる。


「おい、聞いたか……? 書類を読まないって」

「王族として、いや為政者として致命的では?」

「もし外交条約で同じことをやらかしたら、国が滅ぶぞ」

「今まで殿下が決裁した書類、全部洗い直したほうがいいんじゃないか?」


 不信感の囁きが、さざ波のように広がる。


 アレクセイ様は、その反応を見て満足げに頷いた。


「その通りです、殿下。契約において『読まなかった』は抗弁になりません。それは『重過失』です。よって、この合意書は法的に完全に有効であり、詐欺の構成要件を満たしません」


 バッサリと切り捨てた。


「ぐぬぬ……! ほ、法律の話ばかりするな! お前たちは血も涙もないのか!」


 殿下は論理で勝てないと悟るや否や、論点をずらす作戦に出た。


 感情論へのシフトチェンジだ。


「いいだろう、書類は有効だと認めよう! だが、シャロの罪は消えない! 彼女はもっと重大な罪を犯しているんだ!」


「……まだあるのですか?」


 私が呆れて尋ねると、殿下はマイクを握りしめ、悲劇のヒーローのように叫んだ。


「あるとも! それは『愛の怠慢罪』だ!」


 シーン。


 会場が静まり返る。

 あまりの単語のパワーに、全員の思考が停止したのだ。


「愛の、怠慢……?」


 私が復唱すると、殿下は涙ぐんだ瞳で私を睨んだ。


「そうだ! 君は僕の婚約者でありながら、僕を十分に愛さなかった! 僕が新しい髪型にした時も『お似合いです』の一言で済ませた! もっとこう、『キャーッ! 素敵! 世界一!』と叫ぶべきだろう!?」


「……喉が枯れますので」


「それに! 僕が風邪を引いた時も、君は最高級の薬と医者を送りつけてきただけだ! なぜ手作りの粥を持って看病に来ない! なぜ一晩中、僕の手を握って涙を流さないんだ!」


「ウイルスが感染(うつ)りますので。医者に任せるのが合理的です」


「合理的! それだ! 君のその合理性が、僕のガラスのハートを傷つけたんだ!」


 殿下はヒートアップし、檀上を歩き回りながら演説を始めた。


「僕は寂しかったんだ! 君が王妃教育や宰相の仕事にかまけて、僕を見てくれないから! 僕という太陽には、常に崇拝と称賛が必要なんだ! それを怠った君は、精神的な虐待を行ったも同然だ!」


 ……長い。

 そして内容が薄い。


 要約すると「もっとチヤホヤされたかったのに、シャロが塩対応だったから浮気した。悪いのはシャロだ」と言っているだけだ。


 三歳児の言い訳である。


 会場の空気は、もはや「怒り」を通り越して「憐れみ」に変わっていた。


「……あの方、あんなに情緒不安定だったかしら?」

「ミナ嬢に振られたショックでおかしくなったのでは?」

「いや、元からこういう方だったという噂も……」

「隣国の大使も来ているのに、恥ずかしい……」


 しかし、殿下は止まらない。

 自分の言葉に酔いしれている。


「聞いているのか、シャロ! 今こそ悔い改めよ! そして僕に愛を誓え! そうすれば、この寛大な僕が……」


「……まだ言ってますね」


 私はボソリと呟き、扇子でパタパタと顔を仰いだ。


「閣下。これ、いつまで続くのでしょうか。私の『定時』が迫っているのですが」


「あと三分で終わらせよう。私も、彼の戯言を聞いていると蕁麻疹が出そうだ」


 アレクセイ様が冷徹な目で殿下を見る。

 そして、横に控えていたミナ様に目配せをした。


「ミナ嬢、出番だ。トドメを」


「はいっ! 任せてくださいぃ!」


 ミナ様は大きく息を吸い込むと、まだ演説を続けている殿下に向かって叫んだ。


「殿下ぁ! うるさいですぅ!!」


 その一喝は、実によく響いた。


 殿下がビクッとして言葉を止める。


「ミ、ミナ……?」


「さっきから聞いていれば、自分のことばっかり! 『僕を褒めろ』『僕を慰めろ』『僕を愛せ』……! シャロ様はママじゃないんですよぉ!?」


「マ、ママ……!?」


「それに、『愛の怠慢』って言いますけどぉ、殿下だって私の話、全然聞いてなかったじゃないですかぁ! 私が『高いところが怖い』って言ってるのに、空から吊るそうとするし!」


 ミナ様は腰に手を当て、プンプンと怒った。


「愛っていうのは、相手のことを思いやることだって、田舎のおばあちゃんが言ってましたぁ! 殿下のそれは愛じゃなくて、ただの『自己愛』ですぅ! カッコ悪い!」


 グサッ。


 殿下の胸に、見えない矢が突き刺さった音がした。


「カ、カッコ悪い……? 僕が……?」


「はい! ダサいです! その金ピカの服も、ガラスの指輪も、その性格も! 全部まとめてダサいですぅ!」


 ミナ様の純粋な罵倒(事実)は、論理的な反論よりも遥かに殿下の心にダメージを与えたようだ。

 殿下はふらりとよろめき、膝をついた。


「そ、そんな……。僕は、完璧な王子のはず……」


 しかし、まだ諦めていない。

 殿下は震える手でマイクを掴み直し、最後の悪あがきに出た。


「だ、だが! 証拠はあるのか!? 僕が自己中心的だという証拠が! シャロ、君だって僕との思い出があるだろう!? あの美しい日々を否定できるのか!?」


 往生際が悪い。

 まだワンチャンあると思っているそのポジティブさは、ある意味尊敬に値する。


 私はアレクセイ様を見た。

 彼は懐から懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けた。


「……時間だ。シャロ、君から引導を渡してやってくれ」


「ええ。証拠をご所望のようですから」


 私は一歩前に進み出た。

 倒れ込んだ殿下を見下ろす。

 その光景は、まさに悪役令嬢がヒーロー(自称)を追い詰める構図だったが、観客の心は完全にこちら側にあった。


「殿下。美しい思い出、ですか。……残念ながら、私の記憶にあるのは『尻拭いの歴史』だけです」


「な、なんだと……」


「そして、貴方が『証拠』を求めるなら、お見せしましょう。貴方がいかに、自分自身しか愛していないかという動かぬ証拠を」


 私はパチンと指を鳴らした。


 それは、アレクセイ様が仕込んでおいた「最後の仕掛け」の発動合図だった。


 会場の照明が再び落ちる。

 そして、檀上の背後にある巨大なスクリーン(魔法投影幕)に、光が灯った。


「な、何だ? 何が始まるんだ?」


 殿下が怯えたように振り返る。


 そこに映し出されたのは――。

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