第17話

 決戦前夜。

 私は宰相府の執務室で、明日のパーティーに向けた最終調整(という名のお茶会)をしていた。


 窓の外はすでに暗い。

 本来ならとっくに帰宅して「天使の膝枕」に顔を埋めている時間だが、今日はアレクセイ様が「明日の段取りを完璧にしたい」と言うので、少しだけ残業に付き合っていた。


「……で、閣下。この『殿下が暴れた場合の避難経路』の確認は本当に必要ですか?」


「必要だ。窮鼠猫を噛むと言うし、窮王子は何をしでかすか分からん。君に指一本触れさせないためには、念には念を入れる」


 アレクセイ様は真剣な顔で図面を指差している。

 過保護もここまで来ると芸術的だ。


 その時。

 執務室の扉が、控えめなノック音――ではなく、何か重いものがぶつかるような音を立てた。


 ドサッ。ガリガリ。


「……なんだ? 野良犬か?」


 アレクセイ様が眉をひそめる。

 扉の向こうから、聞き覚えのある甘ったるい、しかし切羽詰まった声が聞こえてきた。


「あ、開けてくださいぃ……! ここしか逃げ場所がないんですぅ……!」


「……この声、まさか」


 私が扉を開けると、そこには巨大なトランクを引きずり、ボロボロになったピンク色のドレスを着たミナ様が倒れ込んでいた。


「師匠ぉぉぉ!! 助けてくださぁい!!」


「ミナ様!? どうしたのですか、その格好!」


 ミナ様は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私の足にすがりついた。


「もう限界ですぅ! 無理ですぅ! あんなの人間業じゃありません!」


「落ち着いて。とりあえず中へ」


 私は彼女を部屋に引き入れ、ソファに座らせた。

 アレクセイ様が嫌そうな顔で「汚れる」と呟きながらも、ハンカチを差し出す。


「ありがとうございましゅ……」


 ミナ様はハンカチで盛大に鼻をかむと、深呼吸をしてから語り始めた。


「じ、実は……殿下が、明日のパーティーの『リハーサル』を強要してきたんですぅ」


「リハーサル? またポーズの練習ですか?」


「それだけなら我慢できますぅ。でも、違うんです! 殿下が『僕の愛の勝利を劇的に演出するために、君には天使になって空から舞い降りてほしい』って!」


「……は?」


 私とアレクセイ様の声が重なった。

 空から?

 天使?


「どういう意味だ?」


「物理的な意味ですぅ! 会場の天井に滑車をつけて、そこからワイヤーで私を吊るして登場させるって……! しかも背中に巨大な羽をつけて、手にはラッパを持って!」


「サーカス団か」


 アレクセイ様が即座に突っ込んだ。


「しかもぉ、『登場時のセリフはソプラノの高音で、愛の賛歌を歌いながら降りてこい』って! 私、高いところ苦手なんですぅ! それに歌も音痴なんですぅ!」


 ミナ様が泣き叫ぶ。

 想像してほしい。

 国賓も招かれる厳粛な式典の最中、天井からピンク色の令嬢がラッパを持って回転しながら降りてきて、音程の外れた歌を絶叫する地獄絵図を。


「……それは、確かに断罪されるべきは大罪人(シャロ)ではなく、演出家(ジェラルド)ですね」


「ですよねぇ!? だから私、『無理です、死んじゃいます』って言ったんです。そうしたら殿下が……」


 ミナ様は体を震わせた。


「『愛があれば飛べる! 僕を信じて飛べ! 君ならできる、だって僕の選んだ天使だから!』って、聞く耳を持たないんですぅ! 今夜中に予行演習をするから屋根に登れって言われて……隙を見て逃げ出してきましたぁ!」


「……屋根?」


 完全に常軌を逸している。

 もはやナルシストというより、狂気のマッドサイエンティストに近い。


「怖かったぁ……。もう殿下の顔も見たくないですぅ。私、このまま実家に帰りますぅ……」


 ミナ様がトランクを抱きしめて縮こまる。

 その姿は、あまりにも哀れだった。


「待て。今実家に帰れば、殿下の追っ手が差し向けられるぞ」


 アレクセイ様が冷静に指摘した。


「『愛の逃避行ごっこ』と解釈されて、連れ戻されるのがオチだ。そして明日の本番、君は無理やり空を飛ばされることになる」


「ひいいっ! 嫌ですぅ! 死にたくないですぅ!」


「落ち着きなさい、ミナ」


 私は彼女の肩に手を置いた。


「実家に帰るのは危険です。かといって、このまま外を放浪するわけにもいきません」


「じゃあ、どうすれば……」


「簡単なことです。……ここにいればいいのです」


 私はニヤリと笑った。


「宰相府は、王城で最も警備が厳重な場所。ここに『避難』していれば、殿下の手は届きません。アレクセイ様、よろしいですよね?」


 アレクセイ様に向けて視線を送る。

 彼は少し考え込み、やがて悪党のような笑みを浮かべた。


「……悪くない。殿下の『愛しの天使』を私が保護(拉致)したとなれば、彼への精神的ダメージは計り知れないな。それに、明日の『証人』を確実に確保しておくという意味でも合理的だ」


「でしょ? 空き部屋の一つくらいありますよね?」


「ああ。地下牢でもいいが……まあ、客室を用意しよう」


「本当ですかぁ!?」


 ミナ様が顔を上げた。


「助けてくれるんですかぁ? 私、一応敵役のポジションだったんですけどぉ……」


「敵も味方もありません。貴女は『ジェラルド被害者の会』の名誉会員ですから」


 私はポットから温かいミルクティーを注ぎ、ミナ様に手渡した。


「飲みなさい。そして、今日はふかふかのベッドで眠りなさい。明日はスッキリした顔で、殿下に『三行半』を突きつけてやるのです」


「師匠ぉぉ……!」


 ミナ様は感動のあまり、再び泣き出した。


「一生ついていきますぅ! 私、もう殿下の天使なんて辞めます! これからはシャロ様の犬になりますぅ!」


「犬はいりません。とりあえず、明日の証言台に立ってくれればそれでいいわ」


「はいっ! 『殿下は私を空から吊るそうとした殺人未遂犯です』って証言します!」


「ええ、その意気よ」


 こうして、ミナ様による「裏切り」は確定した。

 いや、これは裏切りではない。生命を守るための正当防衛だ。


「しかし、シャロ」


 アレクセイ様が面白そうに私を見る。


「君は人がいいな。元恋敵を自宅……いや、職場で匿うとは」


「人助けではありません。明日のショーを成功させるための『役者』を守っただけです」


「ふん。まあ、そういうことにしておこう」


 アレクセイ様は秘書官を呼び、ミナ様の部屋の用意を命じた。


「あ、そうだミナ様。そのトランクの中身は?」


「えっと、着替えとお菓子と……あと、殿下が明日着る予定だった『勝負服の予備』が入ってますぅ」


「……なぜそんなものを?」


「殿下が『万が一汚れた時のために君が持っていてくれ』って。重かったんですぅ」


 トランクを開けると、そこには目が痛くなるような金色のタキシードが入っていた。

 背中には、やはりドラゴンの刺繍がある。


「……うわぁ」


 私は絶句した。


「これを着て、貴女を吊るすつもりだったのね?」


「はい。自分は地上で『降りてこい、僕の天使!』って叫ぶ役なので、安全なんです」


「最低だな」


 アレクセイ様が吐き捨てるように言った。


「よし、この服は没収だ。明日のネタの一つとして使わせてもらう」


「あ、じゃあ私、もう一つ情報提供しますぅ」


 ミナ様がミルクティーを飲み干し、キリッとした顔で言った。


「殿下、明日の告発劇の最後に、『シャロから奪った婚約指輪』を私に嵌めて、愛を誓う予定なんですけどぉ」


「指輪?」


「はい。でもその指輪、実は……『露店で買ったガラス玉』なんですぅ」


「……は?」


「予算がないからって。『遠目に見れば分からないし、ミナならガラスでも喜ぶだろう』って側近と話してるのを聞いちゃいましたぁ」


 衝撃の事実だ。

 王族が、婚約指輪にガラス玉?

 しかも、それを公衆の面前で渡すつもりなのか?


「……哀れすぎて涙も出ないな」


 アレクセイ様が呆れ返っている。


「シャロ、明日はもう、私が何もしなくても殿下は自爆するんじゃないか?」


「いえ、確実に息の根を止めましょう。中途半端に生かしておくと、また『ガラス玉でも愛は本物だ!』とか言い出しかねません」


「了解だ。……ミナ嬢、君の証言は決定打になる。明日は期待しているぞ」


「はいっ! 任せてくださいぃ!」


 ミナ様は元気よく敬礼した。

 その顔には、もう迷いも恐怖もない。あるのは、理不尽な上司(殿下)に辞表を叩きつけるOLのような、清々しい決意だけだった。


 ***


 その夜。

 ジェラルド殿下は、自室で頭を抱えていた。


「ミナが……いない!? どこへ行ったんだ!?」


「は、はっ! 屋根に登る練習をすると言って出て行ったきり、戻っておりません!」


「バカな……。まさか、恥ずかしがって逃げたのか? あんなに素晴らしい演出なのに!」


 殿下は窓を開け、夜空に向かって叫んだ。


「ミナァァァ! 戻ってこーい! ワイヤーの強度は確認したんだぞぉぉ!」


 虚しい叫びが夜風に消える。


「……くそっ。まあいい、ミナのことだ。きっと本番には戻ってくるはずだ。彼女は僕を愛しているのだから」


 殿下は根拠のない自信で自分を納得させた。


「待っていろ、シャロ。そして国民たちよ。明日は僕の、僕による、僕のための伝説の日となるのだ!」


 ある意味、その予言は正しい。

 明日は確かに、語り草となる「伝説の日」になるのだから。


 彼にとっての悪夢として。

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