第16話

 決戦の日――建国記念パーティーまで、あと三日。


 宰相執務室は、いつもの静けさを保っていたが、机の上に積まれている書類の種類が明らかに違っていた。


 それは国の政策に関するものではなく、ある一人の人物に関する膨大な「調査報告書」だった。


「……閣下。これは何ですか? 辞書ですか?」


 私は、目の前に積まれた厚さ十センチはある書類の束を指差した。


「ジェラルド殿下に関する『ありとあらゆる』情報だ」


 アレクセイ様は、分厚いファイルをパラパラとめくりながら、涼しい顔で答えた。


「過去三年間の殿下の行動履歴、発言録、金の使い道、女性関係、そして側近たちとの密談の内容……すべて網羅してある」


「……三年間分も?」


「ああ。いつか役に立つと思って記録させておいたのだが、まさかこれほど役に立つ日が来るとはな」


 アレクセイ様は楽しそうに口元を歪めた。


 この人、本当に敵に回してはいけないタイプだ。


 殿下は知らないだろう。

 自分が「宰相は仕事ばかりで何も見ていない」と思っている間に、その行動の全てがガラス張りにされていたことを。


「見てみたまえ。これが『断罪イベント』の脚本(スクリプト)案だそうだ」


 アレクセイ様が一枚の紙を差し出す。

 それは、殿下が側近に作らせた進行台本だった。


『19:00 殿下、スポットライトを浴びて登場。

 19:05 シャロ嬢を壇上に呼び出し、悲劇的なBGMを流す。

 19:10 罪状告発。「君の愛は歪んでいた!」と叫ぶ(ここで涙を拭う仕草)。

 19:15 観衆の感動の拍手。シャロ嬢、改心して泣き崩れる。』


「……演出が細かいですね。BGMまで指定してある」


「三流の喜劇だな。だが、彼らは本気だ。すでに楽団にも根回しをしているらしい」


 私はため息をついた。

 ここまでくると、逆に感心する。

 その情熱を少しでも公務に向けてくれれば、もっとマシな王子になれただろうに。


「さて、シャロ。こちらの『迎撃プラン』だが」


 アレクセイ様は、別のファイルを開いた。

 そこには、赤字で『完全殲滅』と書かれた付箋が貼ってある。


「殿下の矛盾点を突く証拠資料は揃っている。これを使えば、彼を論破するどころか、過去の不正会計や職権乱用まで暴き立て、王位継承権の永久剥奪どころか、国外追放まで持っていけるが……どうする?」


 アレクセイ様の瞳が、冷たく、鋭く光る。

 彼は本気だ。

 私が「やれ」と言えば、ジェラルド殿下の人生を社会的に終わらせるつもりだ。


 私は少し考えて、首を横に振った。


「いえ、そこまでは結構です」


「なぜだ? 情けか?」


「いいえ。後処理が『面倒くさい』からです」


 私はきっぱりと言った。


「殿下を完全に潰してしまえば、王家の権威が失墜します。そうなると、国民の不安が高まり、暴動やデモが起きるかもしれません。その対応をするのは誰ですか?」


「……私だな」


「ええ。そして、貴方の補佐官である私です。結果、私の残業が増え、安眠が妨害される。それは困ります」


 アレクセイ様が目を丸くし、それから喉を鳴らして笑った。


「くくっ……そうか。君はどこまでも合理的だな」


「当然です。私の目的は『平穏な生活』であって、復讐ではありませんから」


 私は紅茶を一口飲み、続けた。


「殿下には、二度と私に関わらないようになってもらえればそれで十分です。廃嫡されて一般人になられても困ります。適度に飼い殺……いえ、地方で静かに暮らしていただくのがベストかと」


「飼い殺しと言いかけたな。……いいだろう。君の望み通り、『完膚なきまでに叩き潰す』プランAではなく、『再起不能なまでに恥をかかせて退場させる』プランBで行こう」


 アレクセイ様は『完全殲滅』のファイルを閉じ、『精神的抹殺』と書かれた別のファイルを取り出した。

 ……どっちにしろ抹殺なのだが。


「お手柔らかにお願いしますね。片付けが楽なほうで」


「承知した。だが、君を侮辱しようとした罪は重い。公衆の面前で、彼自身の口から『私はバカです』と認めさせるくらいのことはさせてもらうぞ」


「それくらいなら、まあ。事実ですし」


 私たちは顔を見合わせて、黒い笑みを共有した。


 ***


 その頃。

 王城の別の部屋では、ジェラルド殿下が鏡の前で最終リハーサルを行っていた。


「ふふふ……完璧だ。この角度、この視線! シャロもきっと、僕の威厳に打たれて平伏すに違いない!」


 殿下は、特注の白いタキシード(背中に金糸でドラゴンの刺繍入り)を着て、ポーズを決めていた。


「殿下、素晴らしいです! きっと歴史に残る名演説になりますぞ!」


 側近たちが胡麻をする。


「だろう? ああ、可哀想なシャロ。僕の愛が深すぎるあまり、道を誤ってしまった愚かな女……。でも安心してくれ。僕がこの手で救い出してやるからな!」


 殿下はうっとりと自分の世界に浸っていた。


 その部屋の隅で、ミナ様が死んだ魚のような目で爪を磨いていることに、彼は気づいていなかった。


(……あーあ。シャロ師匠に全部チクった後なのに。殿下ってば、裸の王様ですねぇ)


 ミナ様は心の中で呟き、小さくあくびをした。


(ま、私は当日に『真実』をぶちまけて、スッキリさせてもらいますけどねっ)


 ***


 そして前日。

 執務室での作戦会議は、最終段階に入っていた。


「当日の配置はこうだ。私が君をエスコートし、最前列に陣取る。殿下が君を呼び出したら、まずは私が牽制する。それでも彼が止まらなければ……君の出番だ」


「はい。私は『か弱き被害者』のフリをして、決定的な証拠(キラーパス)を投げればいいのですね」


「そうだ。そしてトドメは、証人喚問だ」


 アレクセイ様が指を鳴らすと、控えていた秘書官が大きなトランクを持ってきた。


「これは?」


「当日、君が身につける『防具』だ」


 トランクが開けられる。

 中に入っていたのは、目も眩むような宝石のセットだった。

 ネックレス、イヤリング、ブレスレット、ティアラ。

 すべてが最高級のブルーダイヤモンドで統一されている。


「……閣下。これ、総額でおいくらですか? 国家予算の何割ですか?」


「気にするな。私の私財だ」


 アレクセイ様は、ネックレスを手に取り、私の首にかけた。

 ひやりとした感触と共に、ずっしりとした重みがかかる。


「これを身につけていれば、誰も君を『捨てられた令嬢』とは呼ばない。君は『クロイツ公爵家の至宝』として、あの場に立つのだ」


 鏡に映る自分を見る。

 煌びやかな宝石に負けないくらい、私の表情は決意に満ちていた。

 いや、正確には「早く終わらせて寝たい」という強い意志に満ちていた。


「似合っている。……本番が楽しみだな、シャロ」


「ええ。早く終わらせて、美味しいケーキを食べましょう」


「約束しよう。君の勝利の祝杯には、最高のヴィンテージワインも用意する」


 準備は整った。

 情報も、証拠も、根回しも、そして衣装も完璧だ。


 あとは、主役(ピエロ)である殿下が、意気揚々と舞台に上がるのを待つだけである。


 嵐の前の静けさは終わりを告げようとしていた。

 明日は、建国記念パーティー。

 そして、ジェラルド殿下の「終わりの始まり」の日である。

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