第14話

 私の職場環境が「快適なブラック(残業なし)」から「甘々な密室」へと変貌を遂げつつある中、我が家でも異変が起きていた。


 ある日の夕方。

 定時退社(アレクセイ様の送迎付き)をキメて帰宅すると、屋敷の中が妙に浮き足立っていた。


「おかえりなさいませ、お嬢様!」

「お嬢様、本日の夕食は『お祝い膳』です!」


 使用人たちが満面の笑みで出迎えてくれる。

 何かいいことでもあったのだろうか。

 宝くじに当たったとか、庭から石油が湧いたとか。


「……ただいま。誰の誕生日でもないはずだけど、何かあったの?」


「旦那様がお呼びです。応接間へどうぞ!」


 私は首を傾げながら、父の待つ応接間へと向かった。


 扉を開けると、そこには上機嫌でワイングラスを傾ける父(ベルグ伯爵)と、うっとりと新しい反物を眺める母の姿があった。


「おお、シャロ! 帰ったか! 待ちわびたぞ、我が家の救世主よ!」


 父が立ち上がり、私をハグしようとしてくる。

 私はサッと身をかわした。酒臭い。


「お父様、酔っ払っていますね。何があったのですか?」


「これだよ、これ!」


 父がテーブルの上にある一枚の書類を指差した。

 見覚えがある。

 それは、私が今朝、執務室でアレクセイ様に「承認」の印を押してもらったばかりの公文書だ。


『ベルグ領・特産品輸出規制緩和に関する認可証』


「……ああ、これ。今朝、閣下がサインしていましたね」


「そうとも! 我が領地の特産品である『火吹き赤唐辛子』の輸出規制……ここ十年、何度も申請しては却下され続けてきた悲願の案件だ! それが、まさか一日で通るとは!」


 父は感涙にむせんでいる。

 確かに、あの唐辛子は危険物扱い(食べると火を吹くほど辛い)で、輸出には厳しい審査が必要だった。

 アレクセイ様はそれを「嗜好品としての需要あり、経済効果高し」と一瞬で判断し、ハンコを押したのだ。


「クロイツ公爵閣下は素晴らしいお方だ! 合理的で、決断力があり、何より話が早い! ジェラルド殿下の時は『辛いのは苦手だ』という個人的な理由で保留にされていたのにな!」


「それは殿下が悪いですね」


「しかもだ! 認可証と一緒に、閣下からの直筆の手紙が添えられていたのだよ」


 父がうやうやしく手紙を取り出した。

 私は嫌な予感がして、その手紙を覗き込んだ。


『ベルグ伯爵殿。

 貴殿の領地経営の手腕、常々敬服しております。

 今回の認可は、貴殿の実績に対する正当な評価です。

 ……追伸。

 娘さんのシャロ嬢は、私の執務になくてはならない存在です。

 彼女の聡明さと、淹れてくれる紅茶の温かさに、私は救われています。

 これからも末長く、彼女を私の傍に置くことをお許しいただきたい。

 いずれ、正式にご挨拶に伺います。

 ――アレクセイ』


「…………」


 私は天を仰いだ。

 これ、業務連絡に見せかけた事実上の「娘さんをください」宣言ではないか。

 しかも、政治的な恩恵(認可証)という餌をぶら下げて。


「なあ、シャロ。お前、宰相閣下とそんなに親密だったのか?」


 父がニヤニヤしながら聞いてくる。


「ただの上司と部下です。この手紙も社交辞令ですよ」


「社交辞令で、こんな希少な年代物のワイン(賄賂)が届くものか! それに、お母さんのドレス用の生地もだ!」


 母が嬉しそうに口を挟む。


「あら、シャロ。あの方は素敵ね。肖像画で見るよりもずっとハンサムだし、気遣いも細やかだわ。この生地、私がずっと探していた『東方の彩雲シルク』なのよ。どうして好みが分かったのかしら?」


「……私が以前、雑談で話したからです」


 執務室でのティータイム。

 アレクセイ様に「君の母親はどんな人だ?」と聞かれ、ついポロっと「新しい生地を探して街を歩き回るのが趣味」だと話してしまった記憶がある。

 あの男、その情報をメモしていたのか。


「お父様もお母様も、そんな簡単に絆されないでください。物は物、仕事は仕事です」


「何を言うか! こんなに有能で、家柄も良く、しかもお前を大事にしてくれる男が他にいるか? ジェラルド殿下とは雲泥の差だ!」


 父が力説する。


「お父さんは決めたぞ。次の釣書(お見合い写真)が来たら全部断る! お前はクロイツ公爵家に嫁げ! それが我が家にとっても、お前の人生にとっても最良の選択だ!」


「気が早すぎます! まだプロポーズもされていません!」


「時間の問題だろう? 『正式にご挨拶に伺う』と書いてあるじゃないか。……よし、今夜は祝い酒だ! 公爵夫人誕生の前祝いだ!」


 父はご機嫌でグラスを空け、母は「結婚式のお色直しは何回にしましょうか」と夢見がちな顔をしている。


 ……ダメだ。

 完全に買収されている。


 政治力と経済力、そして細やかな気配り(という名の根回し)。

 アレクセイ様は、私を攻略するだけでなく、私の帰る場所である実家まで、完璧に自分の陣地にしてしまったのだ。


(外堀、埋まりましたね……)


 城攻めで言えば、本丸(私)は裸同然で包囲されている状態だ。

 逃げ道はない。

 実家に逃げ帰ろうとしても、父と母が「さあ、閣下の元へお行きなさい!」と笑顔で送り返す未来が見える。


「……はぁ」


 私は深いため息をついた。

 不思議と、嫌な気分ではなかった。

 むしろ、ここまで徹底して「欲しいもの」を手に入れようとする彼の手腕に、呆れを通り越して感心すらしてしまう。


「まあいいわ。とりあえず、ご飯にしましょう。お腹が空きました」


 私は思考を放棄し、豪華な夕食を楽しむことにした。

 抵抗しても無駄なら、美味しいものを食べて寝るに限る。


 ***


 翌日。

 私が執務室に出勤すると、アレクセイ様は今までで一番の笑顔で迎えてくれた。


「おはよう、シャロ。昨夜の実家の雰囲気はどうだったかな?」


 確信犯だ。

 この男、最初から分かっていて聞いている。


「……最高でしたよ。父は貴方からの認可証を額縁に入れて飾る勢いですし、母はウェディングドレスのデザイン画を描き始めました」


「それはよかった。義父上(おとううえ)たちに気に入っていただけたようで安心したよ」


「まだ義父上じゃありません! 気が早すぎます!」


「時間の問題だと言ったはずだが?」


 アレクセイ様は立ち上がり、私の隣(というか真横)の席に来て、私の髪をサラリと撫でた。


「これで、君に縁談を持ち込む輩はいなくなった。君の両親は私の味方だ。……君が逃げる場所は、もう私の腕の中しかないぞ?」


「……性格が悪いです、閣下」


「最高の褒め言葉だ」


 彼は満足げに目を細めた。

 逃げ場がないことを突きつけられ、私は観念したように息を吐いた。


「分かりましたよ。もう逃げません。……ここ(執務室)の居心地がいいのは事実ですし、お茶も美味しいですから」


「素直でよろしい。では、今日も二人きりで、世界を動かすとしようか」


 アレクセイ様は私の頬に軽くキスを……しようとして、私が書類の束でガードした。


「勤務時間中です、閣下。セクハラは労働基準法違反ですよ」


「手厳しいな。では、休憩時間まで我慢するとしよう」


 私たちは視線を交わし、微かに笑い合った。

 もはや、言葉はいらなかった。

 私が彼の「策略」にハマっていることは認めるが、その檻の中が意外と悪くないことも、認めざるを得ない。


 だが。

 私たちがこうして順調に関係(?)を深めている一方で。

 あのアホ……もとい、ジェラルド殿下が、最後にして最大の「暴挙」に出ようとしていたことを、私たちはまだ知らなかった。


 追い詰められたネズミは猫を噛むと言うが、追い詰められたナルシストは、一体何をしでかすのか。

 嵐の前の静けさは、唐突に破られることになる。


「……閣下、ジェラルド殿下が建国記念パーティーで『重大発表』をするという噂、聞きましたか?」


 昼休憩の最中、秘書官が持ち込んだ情報に、アレクセイ様の目がスッと細められた。

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