第13話
夜会からの帰り道。
私たちを乗せたクロイツ公爵家の馬車は、石畳の上を滑るように進んでいた。
車内は静かだ。
けれど、行きの時のような緊張感はない。
あるのは、祭りの後の心地よい疲労感と、独特の甘い空気だけ。
「……ふぅ」
私は小さく息を吐き、凝り固まった肩を回した。
ドレスは美しいが、やはり戦闘服だ。
重いし、締め付けがきつい。早く脱いでジャージ(部屋着)になりたい。
「疲れたか、シャロ」
向かいの席に座るアレクセイ様が、心配そうに声をかけてきた。
「ええ、少し。物理的な重さと、精神的な疲労が同時に来ましたので」
「すまないな。だが、君のおかげで今夜の目的は達成された」
アレクセイ様は満足げに窓の外を眺めている。
その横顔は、仕事を完璧に遂行した男の充実感に満ちていた。
「目的とは、ジェラルド殿下への牽制ですか?」
「それもある。だが、一番の収穫は、君という『有能な補佐官』が、私の管理下にあると周知できたことだ」
「……管理下という言葉、訂正していただきたいのですが」
「おや、間違っていたか? 君のスケジュールも、食べるお菓子も、睡眠時間も、すべて私が管理しているつもりだが」
反論できない。
悔しいことに、彼の管理は完璧すぎて快適なのだ。
「それにしても、閣下。あそこまで派手にやる必要がありましたか?」
「何のことだ?」
「殿下のことですよ。植え込みに投げ飛ばすなんて……もし打ち所が悪かったら」
「心配ない。あの植え込みは『王宮庭師が丹精込めて育てた、クッション性の高い高級常緑樹』だ。彼が無事なことは計算済みだ」
そういう問題ではない気がする。
まあ、殿下が無事なら(精神的には重傷だろうが)いいか。
「君こそ、怖くはなかったか? あんな男に迫られて」
「怖くはありません。ただ、壁の苔が気になっただけです」
「……君らしいな」
アレクセイ様がくすりと笑った。
その笑顔を見て、私の胸がトクリと跳ねる。
今夜の彼は、いつもの「氷の宰相」モードが完全にオフになっている気がする。
馬車が角を曲がり、少し大きく揺れた。
私は体勢を崩しかけ――その瞬間、アレクセイ様の手が伸びてきて、私の体を支えた。
「っと……大丈夫か」
「あ、ありがとうございます」
彼の手は、そのまま私の肩に残った。
離れない。
車内の薄暗がりの中、彼の瞳が私を捕らえて離さない。
「……シャロ」
「はい」
「君が来てから、私の執務室は変わったよ」
唐突な話題転換に、私は瞬きをした。
「変わった? 書類が減ったということでしょうか」
「それもある。だが、もっと根本的なことだ」
アレクセイ様は、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「以前の私は、ただ機械的に国を回していただけだった。書類を処理し、愚かな貴族を黙らせ、効率だけを求めて生きてきた。そこには色もなければ、温度もなかった」
「……仕事人間(ワーカーホリック)の極みですね」
「ああ、否定しない。だが、君が現れてからは違う」
彼の手が、私の肩から頬へと滑り落ちる。
その指先が熱い。
「君が隣で紅茶を淹れる音。書類を見ながら『面倒くさい』と毒づく声。おやつを食べて幸せそうにする顔……それらがあるだけで、あの無機質な部屋が、鮮やかに色づいて見えるんだ」
「閣下……?」
「君がいない休日は、世界が止まったように退屈だ。君が帰った後の執務室は、まるで墓場のように静かすぎる」
アレクセイ様は、私の瞳を覗き込みながら、静かに告げた。
「君がいないと、もう仕事がつまらないんだ」
ドキリとした。
それは、どんな愛の言葉よりも、私の心に深く刺さる響きを持っていた。
あの仕事の鬼が、仕事がつまらないと言うなんて。
「……それは、仕事中毒(ワーカーホリック)の禁断症状では?」
私は照れ隠しに、精一杯の憎まれ口を叩いた。
「私がいないと効率が落ちるから、イライラしているだけでしょう?」
「効率? 違うな」
アレクセイ様は首を横に振った。
「これは中毒だ。だが、仕事へのそれではない」
「じゃあ、何への……」
「君への、中毒だ」
時間が止まった。
馬車の車輪の音さえ聞こえなくなる。
君中毒(シャロ・ホリック)。
その言葉の破壊力に、私の思考回路は完全にショートした。
「わ、私は……カフェインみたいなものですか?」
「もっと質が悪い。一度味わったら、もう二度と手放せない劇薬だ」
アレクセイ様が顔を近づけてくる。
唇が触れそうな距離。
逃げ場はない。
いや、逃げたくないと思ってしまっている自分がいる。
――ガタンッ。
その時、馬車が停止した。
外から御者の声が聞こえる。
「閣下、ベルグ伯爵邸に到着いたしました」
……空気が、霧散した。
アレクセイ様は「チッ」と小さく舌打ちをした(初めて聞いた)後、名残惜しそうに私から離れた。
「……着いてしまったか。馬車を買い替える必要があるな。もっと速度の遅いものに」
「い、いえ! 今のままで十分快適です!」
私は慌てて荷物をまとめた。
これ以上、この密室にいたら心臓が持たない。
アレクセイ様が先に降り、私に手を差し出す。
「お手を、マイ・レディ」
「……ありがとうございます」
私は彼の手を借りて地面に降り立った。
夜風が涼しい。
顔の熱を冷ましてくれるようだ。
「今日はゆっくり休んでくれ。明日は少し遅めの出勤でも構わない」
「えっ、本当ですか?」
「ああ。……その代わり、午後はたっぷり私の相手をしてもらうがね」
アレクセイ様は私の手の甲に口づけを落とすと、不敵に笑った。
「おやすみ、シャロ。夢でも会えるといい」
「……夢の中まで管理しないでくださいね。おやすみなさいませ」
私は逃げるように屋敷の中へ駆け込んだ。
扉を閉め、背中で寄りかかり、ずるずると座り込む。
心臓が早鐘を打っている。
「……あぶなかった」
何が危なかったのか。
それは、私の「働きたくないでござる」という固い決意が、あの甘い言葉で溶かされそうになったことだ。
「中毒だなんて……上手いこと言って、私を一生こき使う気ね」
そう自分に言い聞かせる。
でも、口元が勝手に緩んでしまうのを止められなかった。
(まあ、明日のおやつが美味しいなら、もう少し付き合ってあげてもいいけど)
私は熱い頬を手で仰ぎながら、自室へと向かった。
今夜は「天使の膝枕」を使っても、なかなか寝付けそうにない。
*
その翌日。
私が重役出勤(十一時着)をキメて執務室に行くと。
「おはよう、シャロ」
アレクセイ様が、なぜか部屋の隅に新しいデスクを用意していた。
それも、彼のデスクのすぐ真横に。
「……閣下。私の席、移動しました?」
「ああ。遠くて不便だったからな。これで書類の受け渡しもスムーズだ」
「近すぎませんか? これじゃあ呼吸音まで聞こえますよ」
「それがいいんじゃないか」
アレクセイ様は爽やかに笑った。
どうやら、昨夜の「中毒宣言」は本気だったらしい。
こうして、私の職場環境は「快適」から「過干渉(溺愛)」へと、徐々にシフトチェンジしていくのだった。
だが、私たちが平和にイチャイチャ(?)している間に、外堀は着々と埋まりつつあった。
私の両親が、すでに陥落していたのだ。
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