第12話
アレクセイ様とのダンスは、予想以上に完璧だった。
彼のリードは強引すぎず、かといって迷いもなく、まるで水の中を漂うようにスムーズだった。
曲が終わると、会場からは割れんばかりの拍手が湧き起こった。
私は少し息を弾ませながら、彼に一礼する。
「お疲れ様でした、閣下。私の足は無事です」
「それはよかった。君が軽やかすぎて、私が雲の上を歩いている気分だったよ」
アレクセイ様は涼しい顔で、またしても歯の浮くようなセリフを言う。
この人、宰相を辞めて詩人にでもなればいいのに。
「少し、風に当たりたいわ。飲み物をいただいても?」
「ああ。私が取ってこよう。テラスで待っていてくれ」
「ありがとうございます」
私は人混みを避け、大広間に面したテラスへと足を向けた。
夜風が火照った頬に心地よい。
テラスの手すりにもたれかかり、私は大きく伸びをした。
「はぁ……疲れた」
慣れないヒールに、重たいドレス。
そして何より、周囲への「私、幸せですオーラ」の放出。
女優業も楽ではない。
「……見つけたぞ、シャロ」
背後から、ねっとりとした声が聞こえた。
振り返らなくても分かる。
この無駄に良い声と、漂ってくる薔薇の香水の匂い。
(来ないでって念じたのに、やっぱり来るのね)
私は深いため息をついて振り返った。
そこには、案の定、ジェラルド殿下が立っていた。
目は血走り、髪は少し乱れている。
ミナ様を置いてきたのだろうか。
「ごきげんよう、殿下。私に何か?」
「白々しいぞ! さっきのダンス、あれはなんだ! 僕への当てつけか!」
殿下がズカズカと歩み寄ってくる。
「当てつけではありません。大人の社交です」
「嘘だ! 君は僕を見ていた! 僕が嫉妬に狂う様を見て、楽しんでいたんだろう!?」
見ていない。
というか、ダンス中は足元のステップと、アレクセイ様の顔の近さに必死だったのだ。
「殿下、自意識過剰もそこまでいくと才能ですね。……下がってください。近いです」
私が後退ると、背中が石造りの壁に当たった。
逃げ場がない。
ドンッ!!
殿下の右手が、私の顔の横の壁に叩きつけられた。
いわゆる「壁ドン」である。
至近距離に殿下の顔。
整った顔立ちだが、瞳孔が開いていて怖い。
「……逃がさない。君は僕のものだ」
殿下が低い声で囁く。
普通のご令嬢なら「キャッ☆」となる場面かもしれないが、私は冷静に壁の心配をした。
「殿下。手袋が汚れますよ。ここの壁、苔が生えてます」
「そんなことはどうでもいい! シャロ、素直になれよ。宰相なんて堅苦しい男より、僕のほうがいいに決まっている」
「お断りします。宰相閣下は話が早いですし、定時を守ってくれます」
「仕事の話なんかしていない! 愛の話だ!」
殿下は逆ギレし、さらに顔を近づけてきた。
「戻っておいで、シャロ。僕の胸に。今なら許してやる。ミナと三人で仲良くやろうじゃないか」
「……は?」
今、とんでもないことを言わなかったか?
三人で?
「君は正妃として実務をこなし、ミナは側妃として僕を癒す。完璧な布陣だろ? 君もミナのことが気に入ったようだし、ちょうどいい」
鳥肌が立った。
この男、自分が一番可愛いだけのクズだ。
ミナ様も私も、自分のための便利なパーツとしか思っていない。
「……殿下。冗談でも不愉快です。退いてください」
「嫌だね。君が『愛してる』と言うまで離さない」
殿下がもう片方の手も壁につき、私を両腕の中に閉じ込める。
顔が近い。
香水の匂いで頭が痛くなりそうだ。
私が膝蹴りでも入れようかと考えた、その時だった。
「――ほう。面白い余興をしていますね」
絶対零度の声が降ってきた。
殿下の動きが止まる。
私の視線の先、殿下の背後に、二つのグラスを持ったアレクセイ様が立っていた。
笑顔だ。
だが、その笑顔は、能面のような無機質な怖さを帯びている。
「く、クロイツ公爵……! じゃ、邪魔をするな! これは僕とシャロの問題だ!」
殿下は振り返り、震える声で威嚇した。
「問題? いいえ、これは『害虫駆除』の案件に見えますが」
アレクセイ様はグラスを近くのテーブルに置くと、ゆったりとした動作でこちらへ歩いてきた。
一歩近づくごとに、空気が重くなる。
「シャロ。その男は、君の視界に入れる価値もない。どいていなさい」
「え、でも……壁ドンされてて動けません」
「ああ、そうか。へばりついているのか。汚らわしい」
アレクセイ様は、まるでゴミ拾いでもするかのように、無造作に殿下の襟首を掴んだ。
後ろから、片手で。
「なっ、貴様! 無礼だぞ! 離せ!」
「離せ? お望み通りに」
アレクセイ様は腕に力を込めた。
バリバリッという音(幻聴)と共に、殿下が壁から引き剥がされる。
それはまさに、壁にこびりついたシールを無理やり剥がすような、物理的な「壁ドン解除」だった。
「うわあああ!?」
殿下の体は宙を舞い、数メートル離れた植え込みの中へドサリと投げ捨てられた。
「ぎゃっ!」
情けない悲鳴が上がる。
「……ふん。手触りが悪い」
アレクセイ様はハンカチを取り出し、殿下を掴んだ手を念入りに拭いた。
そして、そのハンカチも植え込みへポイ捨てする。
「シャロ、無事か? 変な菌は移っていないか?」
彼は瞬時に表情を和らげ、私に駆け寄ってきた。
「はい、無事です。……閣下、王族を投げ飛ばすのは、さすがに不敬罪では?」
「何のことだ? 私はただ、君に襲いかかろうとしていた『不審者』を排除しただけだ。暗がりだったから顔が見えなくてね」
しれっと言い放つ。
この人、最強すぎる。
「それに、あれは『自損事故』として処理させる。もし文句があるなら、君へのセクハラ行為を公表し、正式に断罪裁判を開くまでだ」
植え込みの方から、ガサゴソと殿下が這い出してくる音がしたが、アレクセイ様の殺気を感じ取ったのか、すぐに静かになった。
どうやら逃亡したらしい。
「……ありがとうございます、助かりました」
「礼には及ばない。だが、少し目を離した隙にこれだ。やはり君には『虫除け』が必要だな」
アレクセイ様は私の手を取り、壁についた私の背中を優しく払った。
「壁も汚かっただろう。ドレスは新調させるとして、君の心に跡が残っていないか心配だ」
「大丈夫です。私の心は鋼鉄製ですので」
「そうか。だが、私は気が気じゃない」
彼は私の顔を覗き込み、真剣な眼差しで言った。
「もう二度と、あんな男に触れさせない。……君に壁ドンをしていいのは、私だけだ」
「……はい?」
聞き捨てならないセリフが聞こえた気がする。
アレクセイ様は、不敵に笑って、今度は彼自身の手を私の顔の横についた。
ドン。
スマートで、無駄のない、美しい壁ドン。
顔が近い。
でも、香水の匂いはしなくて、代わりに紅茶のような澄んだ香りがする。
「……どうだ? 私のほうが、様になっているだろう?」
「……ええ、まあ。構図としては」
私はドキドキする心臓を悟られないように、冷静に答えた。
顔が熱い。
これはきっと、テラスの気温が高いせいだ。
「戻ろうか。カクテルが温くなってしまう」
アレクセイ様はパッと手を離し、何事もなかったかのように私をエスコートした。
この切り替えの早さ。
やはり、この男には敵わない。
私は彼に手を引かれながら、植え込みの奥で悔し涙を流しているであろう元婚約者に、心の中で合掌した。
(さようなら、殿下。物理攻撃には勝てませんよ)
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