第11話

 その夜、私は鏡の前で硬直していた。


「……マリー。これ、本当に私が着るの?」


「はい、お嬢様。クロイツ公爵閣下からのご指定です。『今宵のシャロは、王妃よりも輝いていなければならない』とのことで」


 目の前にあるのは、ドレスという名の「戦闘服」だ。


 色は、夜空を溶かしたような深いミッドナイトブルー。

 生地には無数の細かいダイヤモンドが散りばめられ、歩くたびに星空のように煌めく仕様になっている。

 背中は大胆に開いているが、レースの使い方が絶妙で、いやらしさよりも高貴さを感じさせるデザインだ。


「これ、お値段いくらするのかしら……」


「考えない方がよろしいかと。国家予算レベルです」


 私は眩暈を覚えた。

 たかが夜会。されど夜会。

 今夜は、私が「ジェラルド殿下に捨てられた哀れな令嬢」ではないことを、貴族社会に見せつける重要な舞台なのだ。


 アレクセイ様は言っていた。

『言葉で説明する必要はない。ただ、圧倒的な美と権力を見せつければ、雑音は消える』と。

 あの人らしい、力技の解決策だ。


「さあ、お嬢様。仕上げのメイクを。今日は『儚げな被害者』ではなく、『誰も寄せ付けない高嶺の花』メイクでいきますよ!」


 マリーが気合十分にパフを叩く。

 私はまな板の上の鯉となって、されるがままに身を任せた。


 ***


 一時間後。

 ベルグ伯爵邸の玄関に、漆黒の馬車が到着した。

 王家の紋章すら凌駕しそうな威圧感を放つ、クロイツ公爵家の馬車だ。


 降りてきたのは、正装に身を包んだアレクセイ様。

 黒の燕尾服に、青いサッシュ。

 その姿は、絵本に出てくる王子様よりも、物語の裏で全てを操る魔王のような妖艶な美しさがあった。


「……待たせたな、シャロ」


 私を見た瞬間、彼が息を飲むのが分かった。

 数秒の沈黙。

 アレクセイ様は、熱っぽい瞳で私を頭の先から爪先まで眺め回した。


「……美しい。言葉にならないな」


「ドレスのおかげです。重くて肩が凝りそうですが」


「中身が君でなければ、このドレスはただの布切れだ。……よく似合っている。誰にも見せたくないくらいだ」


 彼は私の手を取り、甲に恭しく口づけを落とした。

 その仕草があまりに自然で、かつ色気が凄まじいため、控えていたマリーやメイドたちが「きゃあ!」と小声を上げて赤面している。


(この人、天然のフェロモン兵器だわ……)


 私は平静を装いながら、エスコートを受けて馬車に乗り込んだ。


「緊張しているか?」


 揺れる馬車の中で、アレクセイ様が尋ねてきた。


「少し。私が会場に入れば、また好奇の目に晒されるでしょうから」


「安心しろ。私の隣にいる限り、不愉快な視線はすべて私が凍らせてやる」


「物理的に凍らせないでくださいね。会場が寒くなります」


「努力しよう。……シャロ、今日は私の腕から離れないでくれ。これは命令だ」


 アレクセイ様が差し出した腕に、私はそっと手を添えた。

 その腕は意外なほど逞しく、頼りがいがあった。


 ***


 王城の大広間。

 会場はすでに多くの貴族たちで埋め尽くされていた。


 話題の中心は、やはり「先日の婚約破棄騒動」と「シャロ嬢のその後」だ。


「聞いたか? シャロ様はショックで寝込んでおられるとか」

「いや、修道院へ入る準備をしているらしいぞ」

「ジェラルド殿下は今日、ミナ様といらっしゃるのかしら?」


 無責任な噂が飛び交う中、入り口の扉番が高らかに声を上げた。


「――宰相、アレクセイ・フォン・クロイツ公爵閣下、ご入場!」


 ざわめきが一瞬で止む。

 「氷の宰相」の登場だ。皆、背筋を伸ばして敬礼の準備をする。

 だが、扉番は続けて告げた。


「ならびにパートナー、シャロ・フォン・ベルグ伯爵令嬢!」


 シーン。

 会場の時間が止まったかのような静寂。


 重厚な扉がゆっくりと開く。

 光溢れる会場へ、私たちは足を踏み入れた。


 カツ、カツ、とヒールの音が響く。


 私たちは、ただ真っ直ぐに歩いた。

 視線を逸らさず、背筋を伸ばして。


 アレクセイ様の冷ややかな威圧感と、私の(ドレスのおかげで)底上げされた気品。

 二つが合わさることで、そこには「誰も割り込めない結界」のような空間が出来上がっていた。


「……あ、あれはシャロ様?」

「なんて美しい……」

「やつれているどころか、以前より輝いて見えるぞ」

「宰相閣下がエスコートしているなんて、まさか噂は本当だったのか!?」


 さざ波のように、驚嘆の声が広がる。

 嘲笑や侮蔑の視線はない。

 あるのは、圧倒的な「格の違い」を見せつけられた者たちの、畏怖と憧憬だけだ。


「顔を上げて、シャロ。君は今、この国で一番美しい」


 アレクセイ様が耳元で囁く。


「……お世辞が上手ですね」


「事実だ。見ろ、誰も君を笑っていない。全員、君にひれ伏している」


 確かに、周囲の貴族たちは、私たちが通るたびに海が割れるように道を開けていく。

 ジェラルド殿下の隣にいた時は、常に「王子の付属物」として値踏みされるような視線を感じていた。

 けれど今は違う。

 私は「宰相閣下の選んだ女性」として、一人の人間として尊重(あるいは畏怖)されている。


(悪くない気分ね)


 私は少しだけ顎を上げた。

 扇子を開き、口元を隠して優雅に微笑む。

 それだけで、近くにいた令息が顔を赤らめて目を逸らした。


「すごい……。本当に雑音が消えました」


「だろう? 君を『捨てられた可哀想な女』などとは、もう誰にも言わせない」


 アレクセイ様の手が、私の腰に回された。

 所有権を主張するような、強くて温かい感触。


「今夜の君は、私のパートナーだ。胸を張れ」


「はい、閣下」


 私たちは会場の中央、一番目立つ場所まで進み、そこで止まった。

 シャンデリアの光が、私のドレスとアレクセイ様の瞳を照らす。


 まさにその時。

 反対側の入り口から、騒がしい一行が入ってきた。


「ちょっと! 道を開けろ! 僕は第二王子だぞ!」


 空気を読まない大声。

 ジェラルド殿下だ。

 隣には、居心地が悪そうに身を縮こまらせているミナ様がいる。


 殿下は私を見つけるなり、目を剥いた。


「シャ、シャロ!? なんだその格好は!?」


 殿下がツカツカと歩み寄ってくる。

 周囲の貴族たちが、「始まったぞ……」と固唾を飲んで見守る。


 殿下は私の前で立ち止まり、ドレスを指差して叫んだ。


「そ、そんな派手なドレス! 僕の気を引こうと必死だな! だが無駄だぞ、僕の隣にはミナがいるんだ!」


 ……相変わらずのポジティブ解釈だ。

 私は扇子で口元を隠し、冷ややかに言い返そうとした。


 だが、それより早く。

 アレクセイ様が一歩前に出た。


「……殿下。私のパートナーに対し、随分な物言いですね」


 声のトーンは低い。

 だが、その一言で、会場の空気がピキピキと凍りついた。


「く、クロイツ公爵! 貴様、シャロをたぶらかして……!」


「言葉を慎みなさい。彼女は今夜、私の招待客としてここにいる。彼女への侮辱は、私、ひいてはクロイツ家への侮辱と受け取りますが?」


 アレクセイ様の瞳から、光が消えている。

 いわゆる「マジギレ」モードだ。


 殿下が怯んで後ずさる。


「ひっ……」


「それに、そのドレスは私が贈ったものです。『派手』と仰いましたが、殿下の美的感覚では、この芸術的な刺繍の価値が理解できないようで残念です」


 バッサリと切り捨てた。

 殿下の顔が赤く染まる。


「そ、そんな……僕だって……」


「行くぞ、シャロ。品性が移る」


 アレクセイ様は殿下を一瞥もしないまま、私の腰を抱いてくるりと背を向けた。


「あ、ミナ様。ごきげんよう」


 私は去り際に、こっそりとミナ様にウインクを送った。

 ミナ様はパッと顔を輝かせ、小さくガッツポーズ(胸元で拳を握るポーズ)を返してくれた。

 どうやら『虚無の相槌』作戦は順調らしい。


 私たちがその場を離れると、会場からはほうっと安堵のため息が漏れた。

 勝負あり。

 誰の目にも、今のやり取りで「どちらが格上か」は明らかだった。


「……スカッとしましたか?」


 ドリンクコーナーへ移動しながら、アレクセイ様が聞いてきた。


「ええ、とても。ありがとうございます、閣下」


「礼には及ばない。……さて、せっかくの音楽だ。一曲、付き合ってくれるか?」


 優雅に差し出された手。

 断る理由はなかった。


「喜んで。ですが、足を踏んだらごめんなさいね」


「踏まれた痛みさえ、君との思い出なら悪くない」


「……だから、そういうセリフはポエムと同じ分類になりますよ」


 私たちは苦笑し合いながら、ダンスフロアへと進み出た。

 今夜の私は、「悪役令嬢」でも「捨てられた女」でもない。

 ただ、この少し過保護で有能な上司と共に、優雅にワルツを踊る一人の女性として、そこにいた。

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