第10話

 週明けの宰相執務室。


 空気は少し重かった。


 原因は、私の目の前に座る上司、アレクセイ・フォン・クロイツ公爵の機嫌がすこぶる悪いからだ。


「……それで? 昨日の休日は、誰と会っていたんだ?」


 アレクセイ様は書類に目を落としたまま、低い声で尋ねてきた。


 ペンの音がカリカリと神経質に響く。


「ですから、ミナ様です」


「……男爵令嬢の? ジェラルド殿下の今の相手か?」


「はい」


「嘘をつくのが下手だな、シャロ。君があの女性と仲良くお茶をする理由が見当たらない。まさか、殿下も同席していたのでは?」


 アレクセイ様の手が止まり、氷のような視線が私を射抜く。


 どうやら、私がジェラルド殿下と密会していたのではないかと疑っているらしい。


 私は呆れてため息をついた。


「閣下。私の合理的な性格をご存知でしょう? 休日にわざわざストレスの権化(殿下)に会いに行くような自傷行為、するわけがありません」


「……ふむ。確かに」


「ミナ様と会ったのは偶然です。そこで意気投合して、『ジェラルド殿下被害者の会』を結成しただけです」


「被害者の会?」


「ええ。殿下のナルシシズムに胃もたれしている同志として、愚痴を言い合っていただけですよ」


 私がクレープ屋での顛末を簡単に説明すると、アレクセイ様はぽかんとした後、珍しく声を上げて笑った。


「ははは! まさか、あの殿下が愛しているはずの令嬢からも、そんな扱いを受けているとは……! 傑作だ」


「笑い事ではありません。ミナ様も被害者なのです。殿下のポエム攻撃で難聴になりかけていると言っていました」


「なるほど。それは同情するな」


 アレクセイ様は機嫌を直し、再びペンを動かし始めた。


「安心したよ。君が殿下に未練があるわけではないと分かって」


「未練なんて、ミジンコほどもありません」


 私が断言した、その時だった。


 コンコン、と扉がノックされる。


「入れ」


 入ってきたのは、顔を引きつらせた秘書官だった。


 その手には、銀色のトレイに乗せられた一通の手紙がある。


 問題は、その手紙だ。


 ショッキングピンクの封筒に、金粉が散りばめられ、さらに真っ赤な薔薇の封蝋(シーリングワックス)が押されている。


 そして何より――。


「……臭い」


 私は思わず鼻をつまんだ。


 部屋に入った瞬間、むせ返るような薔薇の香水の匂いが充満したのだ。


「閣下……ベルグ嬢宛に、これを預かってまいりました……」


 秘書官は、汚物を持つかのようにトレイを差し出した。


「差出人は?」


「……ジェラルド殿下です」


 室内温度が氷点下まで下がった。


 アレクセイ様が、ゴミを見るような目でそのピンク色の物体を見下ろす。


「シャロ。君への手紙だそうだ。どうする?」


「……検閲をお願いします。精神汚染物質(ポエム)が含まれている可能性があります」


「賢明な判断だ。私が代わりに開封しよう」


 アレクセイ様は魔術で指先を保護すると、ペーパーナイフで封を切った。


 中から出てきたのは、これまたピンク色の便箋が五枚。


 びっしりと、ミミズがのたうち回ったような文字が書かれている。


「……読むぞ」


「あ、要約でお願いします。全文聞くと蕁麻疹が出そうなので」


「分かった。……冒頭は『愛しのシャロ、僕の彷徨える子猫ちゃんへ』」


「ストップ! もう無理です!」


 私は開始一秒でギブアップした。


 背中を悪寒が走り抜ける。


 子猫ちゃん? 誰が? 私が?


 身長一六五センチの、可愛げのかけらもない女を捕まえて?


「頑張って聞け。敵の思考を読むのも仕事のうちだ」


 アレクセイ様は冷静に(しかし少し楽しそうに)読み進める。


「『君が僕の前から去ったあの日、空は涙を流し、太陽は輝きを失った……嘘だ、本当は僕の心が泣いていたんだ』……詩的だな」


「死的の間違いでは?」


「『君があの冷徹な氷の悪魔(私のことらしい)の城に囚われていると思うと、夜も眠れない。君はきっと、涙で枕を濡らしているのだろう?』……君、昨日は爆睡していたそうだが」


「濡らしたのはヨダレくらいです」


「『分かっている。君のあの態度は、僕への愛が強すぎる故の反動だ。ツンデレというやつだね? 恥ずかしがり屋な君が愛おしい』」


 私は机に突っ伏した。


 頭が痛い。


 どうやったら、あの婚約破棄を「恥ずかしがり屋」で片付けられるのか。


 ポジティブ思考もここまでくるとホラーだ。


「そして最後だ。『今すぐ僕の胸に飛び込んでおいで。君の全てを受け入れよう。追伸:新しいポエムを作ったから読んでくれ』」


「まだあるんですか!?」


「ここからが本番のようだ。……題名『罪深き天使の休息』」


 アレクセイ様が朗読を始める。


『ああ シャロ

 君は雲間に隠れた 青白い月

 僕は大地を焦がす 灼熱の太陽

 交わらぬ二つの星が 今 引かれ合う

 君の冷たい瞳は 僕を映す鏡

 割れた鏡に 愛の破片が刺さる

 痛い でも 気持ちいい

 これが 恋なのか――』


 バキッ。


 私が持っていた羽ペンが、手の中でへし折れた。


「……閣下。もう十分です。これ以上は、労働災害(労災)認定を申請レベルの精神的苦痛です」


「同感だ。読み上げている私の口も腐りそうだ」


 アレクセイ様は便箋をトレイに戻した。


 私の腕には、見事な鳥肌が立っている。


 物理的なダメージはないはずなのに、HPがゴリゴリと削られた気分だ。


「どうしますか、これ。返事は?」


「書きませんよ。書いたら『返事が来た! やはり脈あり!』と解釈されるだけです」


「その通りだ。では、この呪いの手紙は適切に処分しよう」


 アレクセイ様は、指先をパチンと鳴らした。


 ボッ。


 トレイの上の手紙が、青白い炎に包まれる。


 それは紙が燃える音ではなく、何か悪いものが浄化されるような「ジュッ」という音を立てて灰になった。


「……物理的に炎上させましたね」


「有害図書類だからな。焼却処分が妥当だ」


 アレクセイ様は涼しい顔で灰をゴミ箱に捨てた。


「しかし、問題だな。殿下はまだ、君を取り戻す気でいるらしい」


「ミナ様との仲が順調ではない証拠ですね。無い物ねだりで、私に執着しているだけでしょう」


「不愉快だ」


 アレクセイ様が立ち上がり、私の席まで歩いてくる。


 そして、私の椅子に手をかけ、顔を近づけた。


「君は私の補佐官だ。そして、私が唯一認めた女性だ。あんな男の妄想の道具にされるのは我慢ならない」


「は、はあ。私も御免です」


「シャロ。しばらくは一人で出歩かないほうがいい。通勤は私の馬車を使え。帰りも私が送る」


「え、それは過保護すぎでは……」


「君を守るためだ。それに、もし殿下が直接接触してきたら、君の『か弱き心』が傷ついてしまうかもしれないだろう?」


 アレクセイ様はニッコリと笑った。


 その笑顔は美しいが、目の奥が笑っていない。


 これは「拒否権なし」の笑顔だ。


「……分かりました。送迎付きなんて、VIP待遇ですね」


「ああ。君は私のVIPだ。一生、手放すつもりはない」


 サラッと重いことを言われた気がするが、ポエムのダメージが残っている私の脳では処理しきれなかった。


「さて、気を取り直して仕事をしよう。この手紙のせいで五分のロスだ」


「はい。……あ、閣下。換気をお願いします。まだ残り香が」


「承知した。浄化魔法もかけておこう」


 こうして、「王子のポエム事件」は、宰相閣下の炎魔法によって強制終了した。


 だが、これは単なる嫌がらせの始まりに過ぎなかった。


 ジェラルド殿下の「シャロ奪還作戦」は、この後、さらに斜め上の方向へと暴走していくことになる。


 そして、それに巻き込まれる私の「平穏な日々」は、遠のくばかりなのだった。


(早く帰って、新しい枕で記憶をリセットしたい……)


 私は切実にそう願いながら、新しいペンを取り出した。

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