第9話

 久しぶりの休日。

 私はアレクセイ様から与えられた「週休二日制」の権利を行使し、王都の街へ繰り出していた。


 目的は、新しい茶葉の仕入れと、最近オープンしたというカフェの偵察だ。

 変装のために眼鏡をかけ、地味な色のドレスを着ているので、誰も私が「渦中の悪女シャロ」だとは気づかない。


「平和だわ……」


 私は大通りのベンチに座り、焼き立てのクレープを頬張りながら呟いた。

 誰にも邪魔されず、青空の下で甘いものを食べる。

 これぞ、私が求めていたスローライフの一端だ。


 ――と、その時だった。


「はぁ……つらい……」


 すぐ隣のベンチから、この世の終わりみたいな深いため息が聞こえた。

 反射的にそちらを見る。


 そこには、ピンク色のふわふわしたドレスを着た小柄な少女が、うなだれて座っていた。

 大きなボンネット帽子で顔はよく見えないが、その背中からは負のオーラが漂っている。


(関わらない方がいいわね)


 私はクレープの最後の一口を飲み込み、立ち去ろうとした。

 だが、少女が顔を上げた瞬間、私は固まった。


 くりっとした大きな瞳に、甘い顔立ち。

 見間違えるはずもない。

 元婚約者の浮気相手であり、現在の「運命の恋人」である男爵令嬢、ミナ様だった。


(げっ)


 私は心の中で舌打ちをした。

 よりによって、こんなところで鉢合わせるとは。

 もしや、ジェラルド殿下も近くにいるのか?


 私は警戒して周囲を見渡したが、殿下の姿はない。

 ミナ様は一人だった。

 しかも、なぜかやつれている。


 逃げるが勝ちか。

 そう判断して背を向けたその時、目が合ってしまった。


「あ……シャロ様?」


 ミナ様が声を上げた。

 ここで無視して逃げれば、また「悪女がミナ嬢を無視した」と噂になりかねない。


 私は覚悟を決めて、営業スマイルを貼り付けた。


「ごきげんよう、ミナ様。奇遇ですね」


「ご、ごきげんようですぅ……」


 ミナ様は力なく返事をした。

 いつもの「あざとい」感じがない。

 それどころか、目の下にクマができている。


「お一人ですか? ジェラルド殿下はいらっしゃらないの?」


「はいぃ……今日は殿下が『公務(という名の謹慎)』で外出できないので、やっと……やっと解放されたんですぅ」


「解放?」


 聞き捨てならない言葉だ。

 ミナ様は私の隣に座り直すと、堰を切ったように話し始めた。


「聞いてくださいよぉ、シャロ様! ジェラルド様、話が長いんです!」


「……はい?」


「一度『可愛いね』って言い出すと、そこから三時間は『僕の愛の詩』を聞かされるんです! しかも韻を踏んでて、内容がないんですよぉ!」


 私は思わず頷きかけた。

 分かる。痛いほど分かる。

 あいつのポエムは、精神攻撃(マインドクラッシュ)レベルの破壊力がある。


「それに、デートに行っても自分の顔が映るショーウィンドウばかり見てるし! 私が新しいドレスを着ても『僕の隣にふさわしいね』って、結局自分のことだし!」


 ミナ様が怒っている。

 いや、あれは怒りというより、純粋な疲労と困惑だ。


「あの……ミナ様? 貴女、殿下のことがお好きなのでは?」


「好き……? うーん、顔はキラキラしてて綺麗だなぁって思いますけどぉ。中身があんなに『残念』だなんて聞いてないですぅ」


 ミナ様はガックリと肩を落とした。


「私、田舎から出てきたばかりで、都会の王子様って素敵だなぁって思って。優しくされたから付いていっただけなんですけど……。最近、耳が痛くて」


「耳が?」


「殿下の声を聞くと、耳鳴りがするんですぅ」


 それはストレス性の難聴になりかけているのではないか。

 私は不覚にも、元ライバル(?)に同情してしまった。


「……ミナ様。一つ、いいことを教えて差し上げましょうか」


「えっ? なんですかぁ?」


「殿下の話を短くする方法です」


 ミナ様が顔をバッと上げた。

 その瞳が「救世主を見る目」で私を捉える。


「あ、あるんですか!? そんな魔法みたいな方法が!」


「ええ。簡単ですよ。『無視』するんです」


「む、無視ですかぁ?」


「はい。相槌を打ってはいけません。『すごーい』とか『さっすがぁ』とか言っちゃダメです。それは殿下にとってガソリンみたいなものですから」


 私は長年の経験に基づいた「対ジェラルド用マニュアル」を伝授した。


「殿下が語り始めたら、虚空を見つめて『へー』『ふーん』『そうなんですかー(棒読み)』の三つだけで返してください。視線は合わせないこと。できれば、手元で別の作業(爪磨きなど)をしながら聞くのが効果的です」


「そ、そんなことして怒られないですかぁ?」


「大丈夫です。殿下は自分の話に陶酔しているので、貴女が聞いているかどうかなど気にしていません。しばらく反応がないと、勝手に満足して黙ります」


 ミナ様は真剣な表情でメモを取るフリをした。


「なるほどぉ……! 私、一生懸命リアクションしなきゃって思ってましたぁ! 逆効果だったんですねぇ!」


「ええ。貴女のその可愛らしいリアクションが、彼のナルシシズムを加速させていたのです」


「シャロ様……すごい。やっぱり長年婚約者をされていただけありますねぇ。尊敬しますぅ」


 ミナ様の目がキラキラと輝いている。

 なんだろう、この感じ。

 計算高い悪女かと思っていたが、この子、ただの天然で素直な子なのでは?


「それにしても、シャロ様はいいなぁ。あんな面倒な人から解放されて、今はイケメン宰相様とラブラブなんですよねぇ?」


「ラブラブではありません。雇用関係です」


「えー? でも、すごく大切にされてるって噂ですよぉ。いいなぁ、私も『氷の宰相』様のほうが良かったかもぉ」


「アレクセイ様も、仕事に関しては鬼のように厳しいですよ?」


「でも、自分の自慢話とかポエムとか言わないですよね?」


「……まあ、言いませんね」


 代わりに「君の処理能力は美しい」とか変な口説き文句は言うけれど。


「はぁ……私、選択を間違えたかもですぅ」


 ミナ様は大きなため息をついて、クレープ屋の方を見た。


「あのぉ、シャロ様。お礼にご馳走しますから、一緒にクレープ食べませんかぁ? もっと殿下の対策法を聞きたいんですぅ」


 普通なら断るべきシチュエーションだ。

 元婚約者の今カノと、クレープを食べるなんて。

 でも、私は彼女の裏表のない「おバカさ」が、なんとなく憎めなかった。


「……いいでしょう。ただし、チョコバナナ生クリーム増量でお願いします」


「はいっ! 任せてくださいぃ!」


 こうして、奇妙な女子会が開催された。


 私たちはベンチに並んでクレープを食べながら、「ジェラルド殿下のここがウザい」という話題で大いに盛り上がった。


「分かりますぅ! あの『前髪をかき上げる仕草』、一時間に五回はしますよね!」


「そう! しかも必ず、窓ガラスや鏡の前で角度を確認してからやるのよ」


「うわぁ、きもーい!」


「でしょ? あと、『君のために世界を敵に回してもいい』とか言うくせに、虫一匹出ただけで私を盾にするのよ」


「あ、それ昨日やられましたぁ! ハチが出たら『ミナ、守ってくれ!』って!」


「成長してない……」


 私たちは腹を抱えて笑い合った。

 まさか、恋敵(?)とこんなに意気投合するとは。

 敵の敵は味方、というか「被害者の会」結成である。


「あー、すっきりしましたぁ。シャロ様って、怖い人かと思ってましたけど、面白い方ですねぇ」


「貴女もね、ミナ様。もっと計算高い悪女かと思っていました」


「えへへ、よく言われますぅ。でも私、難しいこと考えると頭痛くなっちゃうんでぇ」


 ミナ様はペロリと舌を出した。

 これは、ジェラルド殿下には荷が重いかもしれない。

 むしろ、この天然さが殿下の暴走を止めるストッパーになる可能性すらある。


「そうだ、シャロ様。これからは『ミナ』って呼んでくださいぃ。私も『シャロお姉様』って呼んでいいですかぁ?」


「お姉様はやめて。鳥肌が立つから」


「じゃあ、師匠!」


「……まあ、それなら許容範囲ね」


 こうして私は、思いがけず「弟子」を取ることになってしまった。

 ジェラルド殿下対策の師匠として。


 別れ際、ミナ様は晴れやかな笑顔で手を振った。


「師匠! 教えてもらった『虚無の相槌』、早速今日から実践してみますねぇ!」


「ええ、健闘を祈ります。無理だと思ったら、すぐに逃げなさい」


「はいっ!」


 私は遠ざかるピンク色の背中を見送った。

 不思議な縁だ。

 断罪イベントの引き金になるはずのヒロインが、まさかの味方ポジション(?)に収まるとは。


(でも、これで少し安心かも)


 ミナ様が殿下の手綱を握ってくれれば、私のところへ殿下が突撃してくる回数も減るだろう。

 これは合理的な同盟関係だ。


 私は満足して、残りの休日を楽しむことにした。

 だが、翌日。

 なぜかアレクセイ様が、不機嫌オーラ全開で私を出迎えることになる。


「シャロ。昨日は誰と会っていた?」


 ……どうやら、この国の宰相閣下の情報網は、私の想像を遥かに超えているらしい。

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