第4話

 王城の奥深く、宰相執務室。

 そこは「魔窟」と呼ばれているらしい。

 年中無休で稼働し、膨大な書類の山が築かれ、そこに入った文官たちは三日と持たずに心を病んで辞めていくという。


 そんな噂の場所に、私は連行された。


「……ここが魔窟ですか。意外と片付いていますね」


 部屋の中は整然としていた。

 書類の山などどこにもなく、チリ一つ落ちていない。

 そして、部屋の中央にある巨大な執務机に、その主――アレクセイ・フォン・クロイツ公爵が座っていた。


「ようこそ、ベルグ嬢。片付いているのは、私が無能な部下を全員解雇し、一人ですべて処理しているからだ」


 アレクセイ様は顔を上げず、恐ろしい速度で書類にペンを走らせながら答えた。

 マルチタスクの化身か。


「それは……効率的ですね。で、何の御用でしょうか。私は昨日、自由の身になったばかりの一般市民なのですが」


「君には才能がある」


 彼は手を止め、眼鏡の奥から鋭い視線を私に向けた。


「昨日の『婚約破棄合意書』。あれは芸術的だった。君のような、感情を排して論理的に最適解を叩き出せる人材を、私は求めていたんだ」


「はあ。お褒めにあずかり光栄ですが、私は就職活動をするつもりはありません」


「なぜだ? 我が宰相府の待遇は悪くないぞ。給与は王宮魔導師長と同等、福利厚生も充実している」


「私は! 働きたくないんです!」


 私は机に両手をついて力説した。


「これまでの十年間、私はあのアホ……失礼、ジェラルド殿下のお守りと王妃教育で、睡眠時間を削られ続けてきました! これからは、毎日十時間寝て、美味しい紅茶を飲みながら、庭の草木を愛でて暮らすのです! それが私の人生設計です!」


 室内に沈黙が落ちる。

 アレクセイ様は、ぽかんとした顔で私を見ていた。

 やがて、その口元がくくと歪む。


「……くく、ははは! 働きたくない、か。清々しいほど正直だな」


「笑い事ではありません。帰らせていただきます」


「待て。……君のその願い、私が叶えるとしたら?」


 帰りかけた私の足が止まる。


「……どういう意味でしょう?」


「君の実家は伯爵家だ。いずれまた、政略結婚の話が持ち上がるだろう。君ほど優秀で美しい令嬢を、貴族社会が放っておくわけがない」


 うっ。痛いところを突かれた。

 父も母も理解はあるが、家格に見合う縁談が来れば、無下には断れない立場だ。


「だが、私が君を『宰相補佐』として雇用すれば、話は別だ。『国の重要人物』として、私が君への縁談をすべて握り潰……ブロックしてやれる」


「……魅力的ですね」


「仕事は、私のサポートだけでいい。定時は厳守させよう。昼寝の時間も設けよう。最高級の茶葉も経費で落としていい」


 ぐらりと心が揺れる。

 この男、交渉術に長けすぎている。


「す、少し考えさせてください」


「いいだろう。吉報を待っている」


 私は逃げるように執務室を後にした。

 背中でアレクセイ様が「逃がさないよ」と呟いた気がしたが、聞かなかったことにする。


 ***


 ほうほうの体で実家に戻った私を待っていたのは、さらなる頭痛の種だった。


「シャロ! ここにいたのか!」


 屋敷の応接間に、なぜかジェラルド殿下がいた。

 不法侵入ではないか。


「……殿下。なぜここに? 私たちはもう赤の他人のはずですが」


「ふん、強がるな。僕にはすべてお見通しだぞ」


 殿下はソファにふんぞり返り、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。


「昨日の今日で、宰相の元へ行っていたそうじゃないか」


「ええ、呼び出されましたので」


「それだ! それが君の作戦なんだろう?」


「……はい?」


 殿下は立ち上がり、芝居がかった仕草で私に近づいてきた。


「昨日の婚約破棄騒動。そして、すぐに国の実力者であるクロイツ公爵に接触する……。すべては、僕の気を引くための壮大な狂言! そうだろ!?」


 私は開いた口が塞がらなかった。

 どうやったらその思考回路になるのか、解剖して見てみたいレベルだ。


「あのですね、殿下。私の共通語(リイング)が下手なのでしょうか? 私は本気で、心の底から、貴方との関係を終わらせたんです」


「照れるなよ。僕ほどの男を、そう簡単に忘れられるわけがない。君は『他の男の影』をチラつかせることで、僕に嫉妬させようとしたんだ。……可愛いところがあるじゃないか」


 殿下が私の顎に手を伸ばそうとする。

 私は反射的に半歩下がり、扇子でその手をはたき落とした。


「痛っ! な、何をする!」


「触らないでください。菌が移ります」


「き、菌!? この僕をバイ菌扱いか!」


「いいえ、『勘違い菌』です。空気感染しそうなので、半径三メートル以内には近づかないでいただけますか?」


「つ、ツンデレか! そこまで頑なになるなんて、よほど僕のことが好きなんだな!」


 だめだ。

 言葉が通じない。

 この人は、自分の都合のいいようにしか世界を解釈できない呪いにかかっているのかもしれない。


「ミナ様はどうされたんですか? 『運命の相手』なのでしょう?」


「ああ、ミナか。彼女は可愛いが、少し話が噛み合わなくてね。やはり、僕の知的な会話についてこられるのは、長年連れ添った君しかいないと気づいたんだ」


 どの口が言うか。

 貴方の話が「知的」だったことなど、一度たりともない。


「だからシャロ、許してやろう。あの合意書は、君の『愛のイタズラ』だったということで処理してやる。さあ、戻っておいで」


 殿下が両手を広げる。

 私は全身の鳥肌が立つのを感じた。


 その時。

 ふと、アレクセイ様の言葉が脳裏をよぎった。


『君への縁談をすべてブロックしてやれる』


 もし、私がここで殿下を追い返しても、彼はまた来るだろう。

 「ツンデレ」だの「愛の裏返し」だのと勝手な解釈をして、何度でも。

 そして両親も、王族相手に強くは出られない。


 このままでは、なし崩し的に復縁させられるリスクがある。

 それだけは、死んでも御免だ。


(……毒を以て毒を制す、か)


 私は深呼吸をし、冷え切った目で殿下を見据えた。


「殿下。一つ訂正がございます」


「ん? なんだい? 愛の告白かな?」


「私は宰相閣下の元へ、遊びに行ったのではありません。就職の面接に行っていたのです」


「就職? 君が?」


「ええ。アレクセイ様は、私の才能を高く評価してくださいました。貴方と違って」


「なっ……!」


「私は決めました。今日から私は、宰相閣下の『右腕』として働きます。ですので、公務でお忙しい殿下のお相手をしている暇はございませんの」


 私はマリーを呼びつけた。


「マリー、塩を。……いえ、お客様がお帰りです。玄関までご案内して」


「承知いたしました。さあ、殿下。こちらへどうぞ」


 マリーが良い笑顔で扉を開ける。


「ま、待て! 本気なのか!? あの氷の宰相の下で働くなんて、正気か!?」


「正気ですとも。少なくとも、貴方の婚約者でいるよりはずっと生産的で、精神衛生上よろしいですから!」


 私は呆然とする殿下を部屋から追い出し、ピシャリと扉を閉めた。


 静寂が戻る。

 私は大きなため息をつき、その場にへたり込んだ。


「……言っちゃった」


 売り言葉に買い言葉とはいえ、宣言してしまった。

 あの「魔窟」で働くことを。


 でも、後悔はしていない。

 あのバカ王子の顔を毎日見るくらいなら、書類の山と格闘する方が百倍マシだ。

 それに、アレクセイ様なら、少なくとも話は通じる。


(条件闘争よ。睡眠時間とティータイムの確保は、契約書にきっちり盛り込ませてもらうわ!)


 私は決意を新たに立ち上がった。

 スローライフは少しお預けだが、私の「快適な人生」を守るための戦いは、まだ始まったばかりなのだ。

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