第5話
翌日。
私は再び、王城の奥にある宰相執務室の前に立っていた。
昨日の今日でここに来ることになるとは。
人生とは分からないものだ。
「よし、気合いを入れていくわよ」
私はパンパンと両頬を叩き、重厚な扉をノックした。
「入れ」
中から聞こえた短い返答。
扉を開けると、そこには昨日と同じく、書類の山と格闘するアレクセイ様の姿があった。
「おはようございます、閣下。お約束通り、参りました」
「ああ、待っていたよ。君が本当に来るとは、半分賭けだったのだがな」
アレクセイ様は手を止め、眼鏡を外して私を見た。
その瞳が、獲物を見る捕食者のように怪しく光る。
「賭け、ですか?」
「君は自由を愛する猫のような女性だ。昨日の宣言も、あの場を切り抜けるための方便かと思っていたよ」
「……半分はそうでした。ですが、背に腹は代えられません」
私はため息交じりに答えた。
「あのまま家にいても、元婚約者(ストーカー)が毎日通ってくる未来が見えましたので。それならば、ここで働いて『宰相閣下の庇護下』にあるという既成事実を作る方が合理的だと判断しました」
「賢明な判断だ。歓迎するよ、シャロ」
アレクセイ様が立ち上がり、ソファの方へ手招きをする。
「さて、まずは雇用契約の話をしようか。君の希望条件を聞こう」
「はい。リストにしてきました」
私は夜なべして作成した『労働条件要望書』を、バシッとテーブルに叩きつけた。
アレクセイ様がそれを手に取り、読み上げる。
「……始業は朝十時。昼休憩は二時間。午後三時には必ずティータイムを設けること。残業は原則禁止。休日は週休二日制……」
彼は眉をひそめた。
「ふむ」
「無理とは言わせません。これらは私の『生産性』を維持するために必要不可欠な条件です。もし飲めないのであれば、私は今すぐ回れ右をして帰ります」
私は強気に言い放った。
普通の職場なら即不採用レベルのワガママ条件だ。
断られるならそれでいい。
しかし、アレクセイ様は涼しい顔で頷いた。
「いいだろう。全て承認する」
「……へ?」
「その代わり、勤務時間内は私の指示に従い、最大限のパフォーマンスを発揮してもらう。それで構わないね?」
「い、いいんですか? 本当にお昼寝とか要求してますよ?」
「君の昨日の手際を見る限り、凡人が十時間かけてやる仕事を一時間で終わらせる能力がある。ならば、残りの時間は寝ていようが茶を飲んでいようが、結果さえ出れば問題ない」
な、なんて合理的な上司なんだ。
この国にこんなホワイト企業(?)が存在したとは。
「分かりました。契約成立ですね」
「ああ。給与に関しては、昨日の提示通り王宮魔導師長クラスを用意した。……これでもう、逃げられないぞ?」
アレクセイ様が契約書を差し出す。
私は震える手でサインをした。
これで晴れて、私は国家公務員(特別枠)だ。
「では、早速仕事に入ってもらおうか。我が補佐官殿」
「お手柔らかにお願いします。まずは何を? お茶汲みですか?」
「いや。これだ」
アレクセイ様が指差したのは、執務机の端に積まれた、一際高い書類の塔だった。
禍々しいオーラを放っている。
「……なんですか、あれ」
「ジェラルド殿下に関する、各方面からの苦情と陳情書の山だ」
「うわぁ」
思わず顔をしかめた。
「昨夜の騒動で、貴族院や教会、果ては隣国の大使から問い合わせが殺到していてね。『王子の婚約破棄は正当なのか』『次期王位継承権はどうなる』『王家の教育方針を疑う』……対応に追われて、昨日は一睡もしていない」
よく見ると、アレクセイ様の目の下には薄っすらとクマがあった。
氷の宰相も、中身は人間だったらしい。
「私がこれを処理するんですか?」
「君が一番、事情(元凶)に詳しいだろう? 適当にあしらってくれ。私は予算編成の会議がある」
そう言うと、アレクセイ様は颯爽と部屋を出て行ってしまった。
残されたのは、私と、呪いのアイテムのような書類の山。
「……初日からハードル高くない?」
私はため息をつき、一番上の書類を手に取った。
とある伯爵からの苦情だ。『娘が殿下に声をかけられたと言っているが、婚約者がいるのにどういうことか』云々。
(ああ、これか。全部パターン化できそうね)
私はパラパラと数枚の書類に目を通し、すぐにペンのインク壺を開けた。
「よし、やるわよ。定時退社のために!」
***
二時間後。
会議を終えて戻ってきたアレクセイ様は、部屋に入るなり立ち尽くした。
「……これは?」
「お帰りなさいませ、閣下。苦情処理、完了しました」
私は優雅に紅茶を飲みながら、空っぽになった机の上を指差した。
そこには、分類ごとに綺麗に束ねられた返信用の封筒が積まれている。
「バカな。あの量を、たった二時間で? 三百通はあったはずだぞ」
「中身を確認したところ、内容は大きく分けて三パターンでした。『王子の素行への苦情』『婚約破棄の事実確認』『今後の王位継承に関する探り』です」
私は説明を続ける。
「それぞれの回答テンプレートを作成し、相手の身分に合わせて敬語のレベルを微調整する魔術具(ペン)を併用しました。あとはひたすらサインをするだけです」
「……内容は?」
「『王子の件については現在、厳正なる調査と再教育を行っております。ご懸念には及びません』。これで全て煙に巻きました」
嘘は言っていない。
きっと今頃、国王陛下あたりが殿下を説教(再教育)しているはずだ。
アレクセイ様は一つ封筒を手に取り、中身を確認する。
そして、信じられないものを見るような目で私を見た。
「……完璧だ。私が書くよりも丁寧で、かつ慇懃無礼で相手を黙らせる文章だ」
「お褒めにあずかり光栄です。長年、殿下への苦情対応……いえ、ファンレターの整理をしてきた経験が活きました」
「君を雇って正解だった。これなら、私の睡眠時間も確保できそうだ」
アレクセイ様が、ふわりと笑った。
今までの冷笑や皮肉っぽい笑みではない。
少年のように無邪気で、安堵に満ちた笑顔だった。
(……っ!?)
ドキン、と心臓が妙な音を立てる。
不意打ちは反則だ。
氷の宰相が解ける瞬間を見てしまったようで、なんだか居心地が悪い。
「あ、あの。仕事が終わったなら、少し休憩を……」
「ああ、もちろん。約束通りティータイムにしよう。おいしいお菓子があるんだ」
アレクセイ様は機嫌よく戸棚を開け始めた。
(……もしかして、この職場。思った以上に居心地が良いのでは?)
そんな甘い考えが頭をよぎったが、私はすぐに首を振った。
油断してはいけない。
相手はこの国の宰相。
いつ、更なる難題(ブラック案件)を振ってくるか分からないのだから。
私は気を引き締め直しつつ、差し出されたクッキーに手を伸ばした。
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