第3話

 私が颯爽と会場を去った後。


 取り残された夜会場は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたらしい。


 ……というのは、後から聞いた話だ。


 その時、会場の中心では、顔を真っ赤にしたジェラルド殿下が喚き散らしていた。


「無効だ! あんな紙切れ、認められるわけがないだろう! シャロのやつ、僕を騙し討ちにするなんて卑怯だぞ!」


 殿下は手元の書類をビリビリに破こうとした。


 しかし、その手は空を切った。


 いつの間にか、その書類は長身の男の手の中にあったからだ。


「……おや。これは王家公式の羊皮紙ですね。破り捨てるなど、感心しませんな」


 涼やかな、しかし絶対零度の威圧感を含んだ声。


 アレクセイ・フォン・クロイツ宰相である。


 彼は私のサイン入り(そして殿下のサイン入り)の合意書を、まるで宝石の鑑定でもするかのようにしげしげと眺めていた。


「クロイツ公爵! 返せ! それは無効なんだ!」


「殿下。ご自身の署名がある以上、無効とは言えません。それに、この書類……非常に興味深い」


 アレクセイは眼鏡の位置を中指で押し上げ、口元を歪めた。


 それは嘲笑ではなく、獲物を見つけた肉食獣の笑みだった。


「第一条の『性格の不一致』という文言。あえて『不貞』と書かず、殿下の体面を守る形にしている。それでいて『即日発効』の条項には、王室典範の特例規定を巧みに引用している……」


「な、何の話をしているんだ?」


「つまり、法的に一点の曇りもない、完璧な書類だということです。これを作成したのはベルグ伯爵令嬢ですか? 専門の法律家を雇った形跡もない」


 アレクセイは感嘆のため息をもらした。


「素晴らしい。余計な感情論を排し、最短ルートで目的を達成するための論理構成。無駄がない。美しいとさえ言える」


「おい、聞いてるのか宰相! 僕は被害者だぞ!」


「被害者? 中身を確認せずに署名をする者が、為政者になれるとお思いで?」


 アレクセイの視線が、スッと細められた。


 その瞬間、場の気温が五度くらい下がった気がして、周囲の貴族たちは一斉に震え上がった。


「今回の件、すべて殿下の不徳の致すところ。これ以上騒ぎ立てるなら、国王陛下に『殿下は重要な条約書にも目を通さずにサインをする危険人物である』と報告せねばなりませんが?」


「うっ……! そ、それは……」


「よろしいですね? 婚約破棄は成立しました。ミナ男爵令嬢とお幸せに」


 アレクセイは優雅に一礼すると、踵を返した。


 その手には、しっかりと私の『婚約破棄合意書』が握られたままである。


「ま、待て! その書類を持っていってどうするつもりだ!」


 殿下の問いに、アレクセイは立ち止まり、振り返ることなく答えた。


「参考資料として保管させていただきます。……あと、この作者(シャロ)には、個人的に興味が湧きましたので」


 そう言い残し、彼は会場を後にした。


 残されたのは、真っ青な顔の殿下と、状況がよく飲み込めていないミナ様、そして「宰相閣下が笑った……!?」とざわつく貴族たちだけだった。


 ***


 一方その頃、当の私ことシャロは。


 王都にあるベルグ伯爵邸のリビングで、優雅に紅茶を啜っていた。


 目の前には、頭を抱える父と、おっとりとした母がいる。


「……つまり、何か? お前は夜会の最中に、殿下にサインをさせて婚約を破棄してきたと、そう言うのか?」


「はい、お父様。事後報告で申し訳ありません。でも、チャンスはあの一瞬しかなかったのです」


 私は悪びれもせずに答えた。


 父、ベルグ伯爵は深いため息をついた。


「お前なぁ……。相手は王族だぞ。もう少し穏便なやり方はなかったのか」


「穏便ですよ。慰謝料も請求していませんし、殿下の浮気も公にはしていません。ただ『性格が合わないのでお別れしました』ということにしただけです」


「それが一番、殿下のプライドを傷つけるんだがな……」


 父は苦笑いをした。


 怒っているわけではないようだ。


 むしろ、少しほっとしているようにも見える。


「まあ、あなた。シャロがあの殿下に嫁いだら、苦労するのは目に見えていましたもの。私は賛成ですよ」


 母がニコニコと援護射撃をしてくれる。


「殿下は見た目は良いけれど、中身が少々……ねえ? シャロの才能が飼い殺しになるのは勿体無いと思っていたの」


「お母様、ありがとうございます。さすが、見る目がおありで」


「うむ……まあ、済んでしまったことは仕方がない。王家から何か言ってきたら、私が盾になろう。お前はしばらく屋敷で大人しくしていなさい」


 父の言葉に、私は胸を撫で下ろした。


 理解のある両親で本当によかった。


 これで明日からは、煩わしい王妃教育も、殿下のご機嫌取りもない。


 朝は好きなだけ寝て、昼は読書をして、夜は美味しい食事を楽しむ。


 夢のスローライフが待っている!


「では、私は休みますね。明日はお昼まで起こさないでください」


 私は上機嫌で自室へと戻り、最高級の羽毛布団にダイブした。


 久しぶりに、何の憂いもなく眠りにつくことができた。


 そう、その時は思っていたのだ。


 翌朝。


 小鳥のさえずりと共に、窓から差し込む爽やかな朝日。


 ではなく、ドンドンと激しく扉を叩く音で私は目を覚ました。


「お嬢様! お嬢様! 大変です、起きてください!」


 マリーの切羽詰まった声だ。


 私は不機嫌に布団を被り直した。


「……マリー、お昼まで起こさないでと言ったでしょう? まだ朝の七時よ」


「それどころではありません! 王城から使いの方がいらしてるんです!」


「使い? 殿下の文句なら受け付けないと言って追い返して」


「違います! 宰相閣下の使いです! 『至急、ベルグ嬢に出頭願いたい』と……!」


 ガバッ、と私は起き上がった。


 宰相?


 アレクセイ・フォン・クロイツ公爵?


 昨日の夜、最後に不気味な笑みを向けてきた、あの氷の宰相?


(なんで? 私、何か法に触れることしたっけ?)


 頭の中で昨日の行動を振り返る。


 書類は完璧だったはずだ。違法性はどこにもない。


 それとも、殿下の面子を潰したことに対する報復だろうか?


 いや、あの合理主義の塊のような男が、そんな感情的な理由で動くとは思えない。


「……とりあえず、着替えるわ。待たせておいて」


「はい! あ、それと使いの方がこれを」


 マリーが差し出したのは、一通の封筒だった。


 王家の紋章ではなく、クロイツ公爵家の封蝋が押されている。


 嫌な予感しかしない。


 ペーパーナイフで封を切ると、中には簡潔なメッセージカードが一枚。


『昨夜の書類、拝見した。

 構成、論理、筆跡、すべてにおいて及第点である。

 ついては、君のその能力を我が執務室で活かしてもらいたい。

 拒否権はないものと考えてほしい。

 ――アレクセイ』


「…………は?」


 私は思わず、淑女らしからぬ声を上げてしまった。


 何これ。


 プロポーズでも脅迫状でもなく、まさかのヘッドハンティング?


(能力を活かせって……つまり、働けってこと?)


 私はスローライフを求めて婚約破棄をしたのだ。


 なんでよりによって、国一番のブラック職場と名高い宰相府に呼び出されなければならないのか。


「お嬢様、お顔色が……」


「マリー、逃走用の荷物をまとめて。国境を越えるわよ」


「無理です。屋敷の周り、すでに宰相閣下の近衛兵が包囲しております」


「仕事が早すぎるわよ!」


 私は天を仰いだ。


 どうやら、一難去ってまた一難。


 バカ王子という災厄を払ったと思ったら、今度はもっと質の悪い魔王に目をつけられてしまったらしい。


「……行くしかないわね」


 私は覚悟を決めた。


 こうなったら、対面で断るしかない。


 私は伯爵令嬢であり、自由人だ。


 誰の下にもつくつもりはないと、はっきりと言ってやる。


 私は戦闘服(お気に入りのドレス)に着替えると、戦場(宰相閣下の執務室)へと向かう馬車に乗り込んだ。

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