春遠からじ

 群れへと帰る道中、私は雪を踏みしめる音を聞いた。その足音は弱々しく、今にも倒れそうなほど不規則だった。

 そろそろと慎重に音のする方へ向かうと、そこに人が倒れていた。どうやら森で迷ったらしい。

 自分の腹が鳴る音を聞く。唾を飲み込み、耐え難い渇きと空腹が一気に押し寄せてくる。

 私は迷い人の上に跨るようにして、その身体を抑えつけた。

 迷い人の口から苦悶の声が漏れる。

 あぁ、私。私。

「喰え」

 迷い人がそう言った瞬間、視界が真っ赤に染まる。

 あぁ、だめ、だめ。嫌だ。私は、人なんか。

 首筋から甘い香りが立ち上り、私は牙を噛み鳴らした。

「ねぇ、お願い。そんなこと言わないで。私を突き飛ばして。そして、どうか私の目の届かないところへ逃げて。私は人なんて食べたくないの」

 お願いと呟くと、頬を伝って涙が滴り落ちる。

 神様は残酷だ。どうしてこんな欠陥だらけの私を作ったのだろう。どうして、こんな罪を背負わせたのだろう。

「いいんだ、レイン。俺はもう帰る場所がない。君の血肉になれるなら、本望だ」

「どうして、私の名前を──」

 私は迷い人の身体を転がし、その顔を見た。

「ウィル……」

 フードを被り、痩せこけてはいたが、間違いなく彼だった。あの時と変わらない、優しい瞳。

「俺は罪を犯した。赦されない罪だ。もう俺に生きる価値なんかない」

「そんなこと! そんなことあるはずないわ! 誰にだって等しく生きる価値はある」

「違うんだ、レイン。それは役割の中で義務を全うしている人だけだ。力なき者は力なき者なりに、力ある者は力ある者なりに果たすべき責務がある。そうやって人は支え合って生きている。誰の支えもなしに生きている人なんていない。俺は誰かの支えになることを放棄してしまった。だから、誰からも支えられなくて当然なんだ」

「そんなの、そんなのってないわ。だって、あなたは私のために……」

「そう、君のためだ。君が俺を変えてしまった。君がいなければ、世界がこんなにも広く、自由で、美しいなんて知らなかった。誰かを理解しようなんて思うこともなく、ただ務めのためだけに生きる人生だった。そうならなくて、本当に良かった」

 あぁ、この人は私が罪悪感を抱かないようにしてくれている。この世界に自分という存在を残さないよう、溶けてしまおうとしている。森に還ろうとしているのだ。

 私はどうすればいい。何を返せばいい。彼が私にくれたもの。私が彼に返せるもの。

「ねぇ、ウィル」

 震える声で呼ぶと、彼は力なく私を見上げた。

「雪がね、降るの。来年も、再来年も。春が来て、雪解け水が流れて、野原に花々が帰ってくる。ここからずっと南に行くと、一年中暑い場所があって、そこは過ごしにくいから、こことそこの真ん中くらいがいいね。そしたら雪も花も見られる。たくさんの景色が見られる。そんな丘に家を建てましょう。あなたは絵を描くの。絵を描いている間、私が働く。あなたは私のために温かい食事を作って待っていて。私はあなたの絵を見て、『これは裏の森? 現実よりずっと綺麗で雄大ね』とか『これは鷲だね。羽の一枚一枚が丁寧で格好いい』とか言うの。そうやって日々を刻みましょう。十年でも、二十年でも、百年だって一緒に居ましょう」

 これは呪いだ。分かっているのに言葉が止まらない。涙が溢れて止まらない。心が私を駆り立てる。

 ウィルは長く目を閉じていた。それは私の言葉に耳を傾けているようでもあり、眠っているようでもあった。

 やがて彼は目を開き、私を真っ直ぐに見つめる。

「レイン、ありがとう。俺と話してくれて。俺に森を教え、君を教え、人を教えてくれた。俺と出逢ってくれてありがとう」

 彼は一度、不規則に息を吸った。瞳はどこか遠くを見ている。そんな顔を見ていられなくて、少しでも寒くないように、私は彼の上に覆いかぶさり、胸に頭を置いた。

 彼の身体は冷たかった。温もりはとうの昔に失われているようだった。

 それでも弱々しい鼓動のまま、彼は言葉を紡ぐ。

「レイン、俺を喰え。そして、君が群れを導くんだ。正しい方に。大丈夫、君ならできる」

 あぁ、そんなこと言わないで。私はいつだって間違える。いつだって、大丈夫なんかじゃない。

「ウィル。私、あなたのことが好きよ。あなたを愛してる」

「知ってたよ。でも、知らないふりをした。俺には応える勇気がなかったから」

「他にも選択肢はあったのかな。私たち、どこで間違えちゃったんだろう」

「間違ってなんかいないさ。これが正しいんだ」

 風が吹く。彼の命の灯火を吹き消そうとするかのような、乱暴な風。

 私は彼の身体を這い上がり、そっと首許に口づけを落とした。

「冬来たりなば」

「春遠からじ」

 彼が笑う。なんだ、知ってたのかと。私も笑う。私たちは似た者同士なんだ。

 雪の上に温もりが溢れていく。私たちの周りの雪が少し溶けて、その下の緑を覗かせていた。

 春はもう、すぐそこまで来ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤ずきんか狼か @miyabi_toka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画