終幕
森の掟
森に生きる。それは自由で美しく、そして残酷な日々の連続だった。群れは常に指導者を求めている。人の血肉を喰らわねば人としての理性を失ってしまう私たち咎人は、森で生きながらも、人との交わりを完全に断つことはできない。
喉の渇きは人の血でしか潤せず、飢えは人の肉でしか満たせない。
足りない。足りない。足りない。
群れは飢えていた。冬になり、辛うじて動物を狩ることで保ってきた理性は、少しずつ摩耗し、夜ごと暴れる者が増えていった。そうなってしまえば最後、夜は本能のままに牙を剥くしかない。だから群れとは別の場所に閉じ込め、日中の穏やかな時間にだけ会いに行くしかなかった。
「お婆ちゃん、会いに来たよ」
「おぉ、レインかい」
土牢の奥から、嗄れた声が返ってくる。
格子の隙間から差し込む日だまりの中へ、祖母が歩み出た。以前ここを訪れたときよりも、明らかに痩せ衰えている。
「お婆ちゃん……また、食べてないんだね」
「すまないねぇ。どうにも、わしらの口には合わんくてなぁ」
祖母が差し出したのは、ペースト状にされた人工肉だった。暴力衝動を抑えることはできないが、生きるための最低限の栄養はあるはずのものだ。
「わしのことはいいんじゃ。それよりレイン、おんし、また狩りに失敗したようじゃな」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
街を襲い、飢えた群れの腹を満たす。それで少しでも理性を取り戻させようとするのが、指導者候補の案だった。けれど、失敗した。群れ全体を潤すには足りず、今朝もまた一人、土牢送りになった者がいる。もう、猶予はない。私自身もまた、本能が理性を噛み砕こうとする感覚を、はっきりと自覚していた。
群れが人を襲う際、最大の障壁となるのがモリビトの存在だ。人の身でありながら、咎人に対抗するための過酷な訓練を積んだ狩人たち。その中でも特に功績を挙げ、畏怖をもって語られる者に与えられる称号、それがモリビト。街の守護者であり、伝承では私たち咎人と祖を同じくするとされる存在。
私は、あの青年の姿を思い浮かべる。
彼は助かっただろうか。絵描きだなんて、ひどい嘘だ。モリビトとあれほど渡り合えるのは、同じくモリビトとして育てられた者だけだ。
彼は、親の前に立ちはだかってまで、私を逃がしてくれた。私を逃がせばどうなるかなど、分かっていたはずなのに。
私は……私は、どうすればよかった?
指導者候補とモリビトの戦い。その場に割って入ろうとした彼を突き飛ばし、気絶させれば戦わずに済むと思った。でも、彼は想像以上に頑丈で、私の攻撃など無かったかのように反撃してきた。怖かった。ただ怖くて、何もできずに立ち尽くし、彼の目を見つめていた。あの優しい目に、私はどう映っていたのだろう。それが分かりそうになって、私は……。
撤退の遠吠えが上がった。モリビト以外の狩人たちも来たのだろう。私は急いで群れに合流しようとして、それで。
跳んで、跳んで、跳んで。次の着地点を定めようと前を見た瞬間、視界が揺れ、気付けば雪の上に倒れていた。
慌てて持ってきた服に着替え、身を隠した。でも、彼が来て、木の裏に隠れて、それでも見つかって。
あぁ、そのとき私は期待してしまったのだ。もしかしたら、彼は私をこの森の外へ連れ出してくれるかもしれない、なんて。そんな愚かな期待を。
それが間違いだった。いいえ、そもそも私と出会わなければ、彼は……。
ごめんなさい。ごめんなさい。
どれほど謝っても、決して許されない罪。
「お婆ちゃん。私ね、人なんて食べたくない」
土牢の中、祖母の表情は見えない。
「……そうかい。それもおんしが選んだ道じゃ。でもそれは、森で生きることを諦めるということ。群れには、もういられないよ」
「分かってる。分かってるよ、お婆ちゃん。また来るね」
そう言い残し、私は土牢を後にした。
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