邂逅
木の裏から、かすかな吐息が立ち上るのを見つけた。雪に溶ける白い息。間違いない。そこにいる。
足音を殺し、呼吸を整え、銃口を定める。引き金に指を掛けたまま、一気に踏み出した。
「あははっ、見つかちゃった」
聞こえるはずのない声だった。
視界に飛び込んできたのは、森にいるはずのない少女の姿。もう忘れたと思っていた面影。
「……レイン」名を呼ぶ。
木を背に、地べたに座り込む彼女は明らかに傷ついていた。それでも、こちらを見上げて、にこやかに微笑む。
「やっと名前、呼んでくれたね」
胸の奥がざわつく。状況を考えろ、と自分に言い聞かせる。
「今、この森は危ない。早く逃げろ」
それは命令でも忠告でもなく、ただの焦りだった。
「そうだね。私も見たよ。怪物が向こうに逃げていくところ」
彼女はそう言って、森の奥を指さす。反射的にその方向へ視線を走らせ、耳を澄ます。確かに、遠くで何かが動く気配があった。複数だ。離れていく。
「あぁ……そうみたいだな」
「ウィルは耳がいいんだね」
「そういう訓練をしたからな」
何気なく返した言葉に、彼女が首を傾げる。
「へー? 絵描きさんって、そんなこともするんだね。良いのは目だけかと思った」
身体がぴくりと強張った。
しまった、と思うより早く、言葉が喉に詰まる。
「レイン、俺は……」
言いかけた瞬間だった。彼女が急に身を起こし、指先で俺の唇を押さえた。
「誰か来る」
囁く声は驚くほど近い。
言われて初めて、気付いた。街の方角から、金属の擦れる音、荒い息遣い、複数人の足音が近づいてくる。重装備だ。
気付けば、俺は彼女に導かれるまま、草むらへと身を潜めていた。葉が擦れる音を必死に抑え、身を低くする。
隠れてから、遅れて疑問が湧く。
――なぜ、俺は隠れた?
考える暇はなかった。すでに足音は近く、今さら動けば見つかる。俺は息を殺し、隣にいるレインの気配を意識しないようにしながら、ただ闇に溶けるしかなかった。
それから暫くして、師が別の狩人たちを引き連れ、森を行進していくのが見えた。
俺はなぜだか、バレてはいけないような気がして息を殺す。隣のレインはといえば、ふとすればそこに居ないのではないかと思うほどに気配を殺していた。
狩人の一団が二人の前を通り過ぎていく。そして、ほうっと俺が安堵の息を吐いた、そのときだった。
「血だ」
その一言に一団がざわめき、ウィルの胸をどきりと打った。
師は続けざまに「まだ新しい」と呟く。
「レイン……」
俺は隣で震える彼女の手を握ろうとした。けれど、その手は宙を切る。二人の隠れる草むらの影から、レインが立ち上がったのだ。
一団が一層のどよめきをみせる。
「女の子だ」
「なんでこんな森の中に……」
「ボロボロだぞ」
口々にさざめく人々。その人の波を割るようにして、師が歩み出た。
「貴様、こんな所で何をしている」
「道に迷ってしまったのです。そうすると街の方が騒がしくなったので逃げて参りましたところ、体力も尽き、ここに隠れていたのです」
師は厳しい顔をさらに険しくし、手に持った剣の刃先をレインへと向けた。
「その言葉、真か?」
草むらの影から、俺は二人のやり取りを固唾を飲んで見守っていた。
レインはコクリと頷き、「怪物たちは向こうへ行きました」と森の奥を指差す。それは俺に教えたのとは別の方角だった。
師は目を細め、レインを睨みつけ、その言葉の真偽を測っているようだった。
やがて、師は彼女を信じることにしたらしい。「ご協力感謝する」とだけ言うと踵を返し、彼女の指す方へと歩き始め――
「いや、お前からは獣の匂いがする」
振り返りざまの一閃。それは、歴戦の狩人の手から放たれる不可避の一撃、そのはずだった。
カンッ! と甲高い音が鳴り、俺の斧の柄が師の剣の刃先を受け止めていた。
「ウィル、お前!」
師の怒りに満ちた声が森に響く。
「レイン、逃げろ!」
背後、驚きに満ちた顔を見せたレインは、しかしすぐに立ち直った。走り出した彼女は瞬く間に最高速へと達し、包囲しようとする人々の頭上を飛び越えた。
呆気にとられる周囲を他所に、師は唸りながら短刀を跳躍するレインへと投げる。しかし、それは俺が腰に吊るした短剣で撃ち落とされ、レインの姿は森の奥へと消えていった。
師が怒りの咆哮を上げ、苛烈な攻撃が斧の柄を、その下の俺自身を叩き割らんと繰り出される。
「貴様は、何を、やったかっ、分かって、おるのかっ! あれは、獣だぞ! 右腕を見ろ! お前がっ、付けた傷っ、だろうっ! あれは!
獣を庇い、あまつさえ、逃がすなど!」
「師よ、何故に狩らねばならないのですか」
俺の言葉にストンと師の顔から表情が抜け落ちた。そして、あれほど苛烈だった剣閃が緩む。
「お前は……最早、息子ではない」
一度目を閉じ、再び開いた師の目に映っていたのは
ゴンッと鈍い衝撃が頭蓋に響き、視界がブラックアウトする。最後に見たのは強く握りしめられた師の拳、そこから滴る赤だった。
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