影との戦い
森の中で俺は一人、訓練に身を投じていた。踏み固められていない新雪は柔らかく、少しでも油断すれば足を取られる。膝を軽く曲げ、重心を低く保ち、足裏全体で地面を踏みしめる。そうしなければ、速度も安定も得られない。この動きを素早く繰り返すと俺の進んだ跡はまるで二匹の蛇が這ったような形になった。
意識はひたすら頭の中の標的に向ける。自分よりも遥かに大きい相手。肌を焦がすようなひと振り。巨大な爪が、牙が、肉薄する。一撃、一撃が致命傷。ただの一撃も貰うことはできない。仮想の敵。されど決して、想像の産物ではない。その現実は師の身体に刻まれた無数の傷が何よりも雄弁に物語っていた。
「ウィル! ウィル!」
母の声が雪を裂いて届いた。
「荷物を持って、こちらにいらっしゃい! 街に奴らが出たわ! お父様はもう向かわれているわ。早く、あなたも!」
瞑目していた俺は、はっと目を開く。その瞬間にはもう、身体が動いていた。背には斧と猟銃を携え、腰には短剣を吊るしていた。鍛え上げた身体が風となって、森を駆け抜ける。
やがて辿り着いた街の広場は、混乱の渦中にあった。悲鳴があちこちで上がり、屋台からは火の手が噴き上がっている。その中央で、師が一体の怪物と相対していた。二本の足で立ち、人に似た形をしていながら、背丈は優に二メートルを越える。全身を毛で覆い、狼に似た顔を持つ異形。俺が狩るべき標的だった。
加勢しようと踏み出した、その瞬間だった。横合いから衝撃が走り、俺の身体は宙を舞った。「かはっ」地面に叩きつけられ、息が詰まる。視界の端で、自分に覆いかぶさる影を見た。咄嗟に転がり、続けざまに振り下ろされた凶器をかわす。転がる勢いのまま、斧を一閃した。
「ぎゃおぅ!」
人のものではない叫びが背後で上がる。一撃は通ったらしい。跳ね起きて振り返ると、そこにいたのは、師が相対しているものとは別の怪物だった。大きく裂けた口から牙が覗き、体格は一回り小さく、どこか痩せて見える。背には人のように背嚢を負い、右腕には、俺が刻んだばかりの傷が走っていた。
斧と短剣を構える。視線が交錯する。殺さなければ、殺される。そう腹を括った瞬間、遠吠えが夜気を震わせた。
影が跳ぶ。屋根を駆け、あっという間に距離が開く。背後から怒声が響き、俺は振り返った。師が血を流しながらも武器を振り上げ、怪物たちを威嚇している。
「ウィル、奴らを追え! 務めを果たせぇ!」
その声に押されるように、俺は走り出した。影を追う。
どれほど速く走れると自負していても、体格の差は埋められない。それでも辛うじて、先ほどの手負いの一体の背を捉え続けていた。怪物たちは次々と森へと消え、俺もまた、その闇の中へ踏み込んでいく。だが、不安定な雪の上を走る俺に対し、奴らは木々を足場に跳躍する。距離は次第に広がり、やがて視界から完全に消えた。
足を止め、痕跡を探しながら森を進む。すると、不意に――ドォン、と鈍い物音が森の奥から響いた。
俺は息を呑み、反射的にその音の方へと駆け出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます