第23話
23、生きていた大心
八木調査員は線刻磨崖仏の調査報告書を刊行した。学術論文なので読む人はごく限られた研究者だけだ。しかし彼がトピックとして書いた坂本大心の人生の記事をネットに挙げた人がいたのだ。かなり長い文章だがYOUTUBEに物語文に編集して3分間の作品として掲載されていた。タイトルは「大心さんの数奇な人生」 反響はじわじわと広がり、閲覧者は20万人を超えていた。杉下も八木君もこのYOUTUBEについては知っていて、時々そのコメント欄も読んでいた。
感想の多くは坂本大心の辛く悲しい人生に同情する人や戦争の恐ろしさを訴えるもの、線刻磨崖仏を見に行ってみたいというようなものだったが、ある日ちょっと毛色の違う感想を見つけた。
「大心さんは不幸な人生だったけど、5年間の懲役を終えてからはどんな生活だったんでしょう。」
という中身だった。杉下も八木もそのことは調べてなかった。父も母も死んでしまい実家の寺も人手に渡ってしまった大心は行く当てもないし、迎えに来てくれる人もなかったはずである。判決が出たのが昭和22年だったので、5年の刑期を終えると昭和27年には出獄している。まだ32歳のはずである。刑務所を出てからの記録はどこにも残っていなかった。彼の人生はそこからは想像でしかなかった。
それから1週間ほどすると八木が目を疑うようなコメントが投稿された。
「坂本大心さんは死んでいるように書かれていますが、誰か確認したんですか。死んだのなら戸籍で死亡が確認できるはずです。ただし家族でない限りは閲覧することは難しいです。」
という投稿だった。八木はすぐに杉下に連絡した。すると彼もその投稿を読んでいるところだった。
「もしもし、八木ですけど。先生、僕たちは始めから大心さんは死んでいると決めつけていましたが、死んだかどうかは確認できていません。死亡届けが出されていれば戸籍に書かれているはずです。戸籍の本籍地はまだ京都府舞鶴市字引戸だと思うんです。舞鶴市役所で調べられませんかね。」
と杉下に迫った。
「舞鶴市役所でわかるかもしれないけど、閲覧には制限があって直系血族、これは遺産相続などで銀行などに提出する必要があるからなんだ。あとは警察などの官憲が捜査のために利用するときくらいしか認められないんだ。」
と杉下が八木に教えた。
「それじゃ、確認のしようがないですね。」
と残念そうな表情で話した。
翌日のコメント欄にはさらに驚くコメントが書かれていた。
「この坂本大心さん、私の勤めているデーサービスセンターに来ている人じゃないかな。102歳ですよね。」
と書いてあった。八木は早速その人のコメントに返信をしてみた。
「私は坂本大心さんのことを調査して報告書に掲載した八木という研究者です。あなたが坂本大心さんのことを知っているという事で驚いています。生きているならば早く会いたいです。どこのデーサービスセンターですか。」
と書き込んでみた。すると夕方には返信が帰って来た。
「返信ありがとうございます。私は福井県若狭町のデーサービスセンター三方五湖といいます。水月湖の北側の静かなところです。ちなみに坂本大心さんは常神という集落で一人暮らしをされています。」
という返信を頂いた。
八木君は急いで杉下に連絡した。
「先生、ついに坂本大心さんの居所がわかりましたよ。常神半島です。若狭湾に突き出た大きな半島の岬の先っぽにある集落に一人で住んでいたんです。毎日デーサービスセンターへ行ってるみたいです。102歳ですから一人で暮らすのは無理がありますよね。早速明日行ってみませんか。」
と意気揚々と話している。杉下はようやく見つけた探し人が見つかった喜びもあるが、何かしらの気持ちの動揺を隠せなかった。どういうわけか嫌な予感がするのだった。直接知っている人ではないし、親戚でもない。岩に描かれてた栄心という名前が気になって調べてみただけである。死んでいると思い込んでいたから調査することに抵抗はなかった。しかし相手が生きているという事になると、その人の人生を暴きたてていることになるのではないか。自分たちがその人の生活に土足で踏み込むことで、それまでの穏やかな生活が脅かされることになるのではないか。もし彼を訪ねるならば、生きているとは知らずに彼のことを報告書に掲載してしまい、お騒がせしたことを謝罪に行くことが目的になるのではないか。そのことを八木君に話すと八木君も心が重くなった。しかしこのままにしておくわけにもいかない。とりあえず行ってみようということになった。
翌日、八木君は役場に有休申請をして杉下と一緒に車に乗った。前回は杉下の車で出かけたので、今回は八木の車で行くことにした。杉下の車の時は大きめのステーションワゴンだったので乗り心地も最高だったが、八木の車はやや小ぶりのTOYOTAのヴィッツだ。男2人で乗るにはいささか狭さを感じるが、燃費はよさそうである。
車は軽快に走り、北陸道から舞若道に入り若狭インターで降りて三方五湖の三方湖周辺を通って水月湖方面に入った。この辺りは梅の栽培が盛んで道の両側に梅干しの販売所が並んでいる。また三方五湖は天然ウナギが取れることでも有名で、ウナギの名店が何軒か並んでいた。波は穏やかで景色は悠久の昔からほとんど変わっていない感じがした。特に波の静かな三方湖では湖の底に毎年一定の泥が溜まって美しい年縞が出来ていた。それが何万年も続いていたので歴史の物差しの役割を果たすらしい。近くに福井県年縞博物館が建てられ、人気を博しているというニュースを見たことがあった。
風光明媚な水月湖の北側に来ると目的のデーサービスセンターはすぐに分かった。太陽の光が燦燦と降り注ぐ明るい建物だ。駐車場に車を停めて中に入ろうとすると、来訪者はインターフォンを押すように書いてあった。杉下がインターフォンのボタンを押すと
「はい、デーサービスです。どなたですか。」
と元気な声が聞こえた。それと同時にテレビの音や車いすの音、老人たちの叫ぶ声など中は騒然としているようだ。
「今日の朝、電話した杉下と八木です。坂本大心さんに面会に来ました。」
と言うと玄関の扉が開いて若い職員が顔を出した。
「どうも、私、YOUTUBEにコメントを載せた古川です。どうぞお入りください。」
と言われて中に入ると、車いすに乗った老人や椅子に座って居る老人たちが、テレビを見ながらお菓子を食べている。お昼のご飯を食べて午後の休憩の時間のようだ。
しばらく待っていると「こちらへどうぞ」
と言われて窓際の日差しが明るいスペースに椅子を用意され、座ろうとすると向こうから車いすに乗った老人が先ほどの古川さんに押されて近くに来た。この老人が坂本大心さんなのだろうか。初めて見るこの老人は白髪だが目はしっかりしている。車いすに乗っているが背筋を凛と伸ばしている。補聴器も付けていない。呼吸を助ける為だろうか、鼻から管を通しているが辛そうな様子はない。本人だとすれば102歳のはずだ。
「お待たせしました。坂本大心さんです。」
と紹介された。八木は古川さんに
「お話は聞こえるんでしょうか。」
と聞くと
「大丈夫です。耳も口も元気です。驚異の102歳ですよ。」
と教えてくれた。杉下が言葉を選びながら話し始めた。
「坂本さん。私たちは永良寺町から来ました杉下と八木です。これくらいの声の大きさで大勝負ですか?」
と言うと顔を縦に振り聞こえていることをアピールしてくれた。
「私たちは永良寺門前の線刻磨崖仏の調査をしました。特に大心という名前が彫られていたことに注目し、永良寺のお寺にもご協力を頂き、大心という名前の方が永良寺にこれまでにいたかどうかというところから調査を始めました。永良寺門前の伊藤さんという宮大工の方があなたのことを覚えていました。その人の記憶からあなたが線刻磨崖仏を彫っていたことが判明し、永良寺で昭和17年の大心さんの住所なども教えていただきました。そして舞鶴の明全寺に行ってみると、さらにあなたの過去がわかってきました。永良寺で明全の解釈について禅問答で対立し破門になり、ふるさとに戻って軍隊に入り、満州では上官の命令に逆らって上官を殺害、軍法会議にかけられたが終戦のどさくさで内地に戻り、実家の寺が人手に渡っていることを知った。失意のうちに永良寺に行ったが、1年前の破門が解かれるわけもなく、自らの罪を贖罪するために、線刻磨崖仏を彫って福井県警に自首をした。京都の宮津で裁判が始まり情状酌量の判断で懲役は5年、5年の刑期を終え昭和27年に出獄。そこまでは調べたんですが、そこからあなたはどんな生活を送ったんですか。」
長い質問になったが102歳の老人は目を離すこともなくしっかりと話を聞いていた。堂々たる態度はとても102歳とは思えない。お化けのような存在である。その老人は何か話そうとしているが、なかなか声が出ないのでイライラしている。ようやく絞り出すような声で
「磨崖仏に名前なんか彫るんじゃなかったな。おれが刑務所にいたことがここのみんなにもばれてしまったじゃないか。」
やはり第1声は個人情報が漏れてしまったことだった。八木は申し訳なさそうに
「すみません。私が報告書に大心さんの数奇な人生について書いてしまったもので、それを読んだ研究者の一人がネット上にあげてしまったんです。配慮が足りませんでした。」
と謝罪した。大心さんは
「どうせ、おれの事は死んでいると思ったんだろ。」
その通りだった。古川さんも
「大心さん、私がそのネット情報を見て八木さんに連絡したんだよ。大心さんのことを知っている人は少ないから、きっと喜ぶと思ったのよ。」
と耳元で言ってくれた。大心さんは若くて優しい古川さんのことは大好きなのか、笑顔で頷いている。杉下は質問を続けて
「あなたのことを随分調べましたが、刑務所を出てからのことが全く分かりませんでした。まだ32歳だったあなたはどこへ向かったんですか。」
すると大心さんは昔を思い出したのか思いつめたような表情で
「大阪刑務所に5年いたよ。満州から帰って来た時の事や永良寺門前で托鉢をしながら野宿して仏を彫っていた時の生活を考えれば、刑務所での生活は快適だったな。何よりご飯の心配をしなくてもいいんだし、運動もさせてくれるから健康的だし、風邪を引けば医者にも診てもらえる。そんな生活を5年した後、刑務所から出るとすぐに岡山へ向かったんだ。岡山市から中国山地に入った津山市の国吉小隊長の実家だよ。私が満州で引き金を引いて殺してしまった上官だ。国吉さんの息子は俺が永良寺で仏様を彫っているときに仇討に来たんだ。ただ事の真相を話したら、仏様を彫り終えたら警察に自首することで納得してくれて、それからは手伝ってくれたんだ。その時に津山の家と小隊長の墓のことは聞いていたんだ。津山につくとすぐに国吉家に行って小隊長の両親や奥さんたちに謝罪し、仏壇に手を合わせた後、小隊長の墓へもお参りさせてもらった。ご両親や奥さんからは殺されるかもしれないと思っていたけど、息子さんが2か月一緒に生活していた時のことを話してくれていたから受け入れてもらえたんだ。」
と岡山へ行った時のことを話してくれたが70年も前の事である。
「岡山を出てからはどうしたんですか。」
と杉下が聞くと102歳の老人は
「関東軍で同じ小隊だった野中という同僚がいたんだけど、そいつは舞鶴の陸軍訓練所からの知り合いだったんだけど、若狭の小浜の人間だったんだ。それで小浜へ行ってどこか働かせてもらえるところはないか聞いたんだ。刑務所を出たばかりの人間を雇ってくれるところなんてほとんどないからな。そしたら野中が言うには親戚が常神(つねがみ)半島の先っちょで定置網をやってるらしいんだ。それで刑務所にはいたけど訳アリなんだって話してくれて、常神の先っちょの小さな村に住むことになったんだ。常神半島って知ってるかい。三方五湖の近くから海に突き出た半島だけど、つい30年前まで道がなくて船でしか行けなかったんだ。半島とはいえほとんど島なんだ。迎えに来てくれた船に乗って岬近くの集落へ着くと海の近くの船小屋に寝泊まりしろって言われて、そこで10年ほど暮らしたかな。貧しかったけど楽しかったよ。毎朝早くに船に乗って定置網を仕掛けてある海まで行って網をあげるんだけど、何人かで力を合わせて網を引くと網に入りきれないほど魚が入るんだ。漁が終わると親方を囲んで焼いた魚を食べさせてくれて、美味しかったな。10年ほど経つと少しづつためたお金で空き家を買って、一人で住むようになった。それから10年ほど経った時、村にひとつだけあった寺の住職が無くなって誰もお経をあげる人がいなくなったんだ。親方がお前昔坊主だったんだから、お経くらいあげられるだろって無理なことを言うんだ。仕方なく法事や報恩講、正月参りなどをしてお葬式は勘弁してもらっていたんだけど、そんな生活が10年も続くと葬式もやってくれって言われ、完全に無免許の坊主になっていたんだ。95歳くらいまでは坊主をしながら漁にも出てたんだけど、もう無理だ。この村まで道路が出来てデーサービスの迎えの車が来てくれるようになってからは、毎日デーサービスに来てるよ。古川さんに聞いたけどみんな俺の人生のこと、数奇な運命とか不幸な人生とか言ってるらしいけど、今考えるとそんなに不幸な人生でもなかったよ。特にこの村に来てからは周りのみんなは優しいし、海はきれいだし、山も美しい。心の中にはいつも西田先生の善と禅があった。善い行いと言うのは自分自身の存在意義を確認できるもので、まさしく宗教観や倫理観につながる物なんだ。村のみんなや漁の仲間、そして今は古川さんたちデーサービスの皆さんに囲まれて俺は今幸せなんだと思うよ。」
と屈託のない笑顔で語ってくれた。
しばらく話していると3時過ぎになり、帰りの支度が始まった。常神集落から来ている坂本大心さんは遠いので一番最初の車で送られるようなので、杉下たちは送迎のワゴン車の後を追いかけて常神集落まで行ってみることにした。
三方五湖のほとりは風光明媚な穏やかな場所だが、ワゴン車が小さい峠を越えると日本海に出た。海沿いの道を北へ北へと走るが、道は細く対向車が来るとどちらかが止まって道を譲らないと通行できそうもない。海側に落ちてしまったらひとたまりもなさそうだ。最初に現れた集落は神子(みこ)という漁村で、小学校らしき建物もあった。よく見ると岬分校と書いてある。現在は廃校になっているようで公民館として利用している。前を走るワゴンはずんずん進んでいって、しばらくすると海沿いの道が山の中に入っていった。海の近くが岩場で道路の工事が出来なかったのだろう。山の中を進む道が作られているが、しばらくすると猿の親子が歩いていた。この山の中に道の途中で10匹以上の猿を見た。人里離れた遠隔の僻地と言った佇まいだ。さらに進んでいくと再び海沿いの道が出て来て、程なく常神集落に到着した。村の中心部は港になっていて岸壁が50mはありそうだ。前を行くワゴン車は集落の中ほどで右折して山の方向に入っていった。30mほど上がったところに寺はあった。この寺に大心さんは住んでいるようだ。ワゴン車が寺の前の広場に止まると中から車いすに乗った大心さんが出てきて、寺の中にはスロープを伝って登って行った。
杉下と八木も車を降り、本堂に入ったが、その時ワゴン車の人たちが帰っていく音が聞こえた。本堂の様子は浄土真宗様式の仏様で、曹洞宗ではなさそうだ。しばらくすると車いすの大心さんが本堂に入って来て御本尊の正面でお経をあげ始めた。杉下たちにもなじみのある正信偈だった。浄土真宗で最もポピュラーな親鸞聖人が編集した念仏である。
約25分の念仏が終了すると大心さんは2人に向かって
「私が明全についてこだわって永良寺を破門になった経緯は聞いたのかい?」
と聞いてきた。杉下は
「永良寺で大徹さんという役寮さんに永良寺実記という記録を調べてもらって、大まかなところは聞きました。」
と答えた。大心さんは
「実記に書かれているのは事実だけだからその経緯は分からないな。少し話してあげよう。」
と言って静かに話し始めた。
「私の実家の明全寺は元々臨済宗の寺で栄西の後継者の明全の血筋なんだ。途中で何回か血筋が絶えて他の家が入っているから直系ではないよ。時代の変化と共に曹洞宗の寺になったが、臨済宗と曹洞宗は大変近い関係にあり、曹洞宗の開祖道元は明全に師事し、中国に連れて行ってもらっている。そして生涯の師と仰ぎ、明全が中国で倒れるとその遺骨と書籍を持ち帰っているんだ。一説には永良寺で厚く祀られているという事でしたが、私が大学を卒業すると大学院に行く前に西田哲学の実践のために永良寺に入門したんですが、入ってみると明全のことなどあまり深く扱っていません。長い年月の間に曹洞宗と臨済宗の間に大きな溝が出来ていたんだよ。私はおかしいと思い、禅問答で上役の人たちと対立したよ。しかし時代が悪かったんだろうね。貧しい時代だったからお寺に来る若者が多かったんだ。お寺としては昔から『来るものは拒まず、去る者は追わず』なんだが寺の中で修行できる人数に制限があり、従順に言う事を聞かない雲水には出て行ってもらいたかったんだと思うよ。俺の言ってることも間違いではないと理解はしてくださったんだけど、もうやめなさいという指示を破ったことが貫主様の怒りに触れてしまったんだ。仕方ないと思うよ。だからお寺を恨むなんて事はないよ。国吉小隊長にも無理な命令を出したことに恨みなんて持ってないよ。戦争でお互いに銃を向け合う状態で倫理観なんて持てるはずがない。殺さなければ殺されるんだ。あの時小隊長は
「今この子を殺さなかったら、いつか俺たちがこの子に殺されるかもしれない。だから撃て。
とおっしゃっていたんだ。戦争ってそういうもんだ。戦国時代の戦と何も変わらないさ。」
恨みはないという大心さんの言葉に杉下も八木も後悔があった。数奇な運命とか不幸な人生とか勝手に思い込んでいた。思い込んだことを文字にして出版してしまったのだ。大心さんに最後の別れをして2人はもと来た険しい道を帰っていった。
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