第22話

22、破門の真相   

 杉下栄吉のもとに永良寺の大徹さんから連絡があったのは20日ほど経ってからだった。電話で大徹は直接話したいので永良寺に来てくれという事だった。杉下は八木に連絡していっしょに大本山永良寺に向かった。いつものように駐車場に車を停めて観光土産店が並ぶ坂道を歩いて登って行き、吉祥閣の玄関から中に入り総受所を訪れた。大徹さんは総受所の見えるところに出ていてくれた。すぐに杉下たちを見つけて

「見つけましたよ。すごい中身でした。僕の部屋に行きましょう。」

と言ってついてこいとばかりに廊下を進んでいった。吉祥閣の階段を昇って3階まで行くと役寮たちの個室がいくつか並んでいる。部屋に入ると畳の部屋になっていて中央には座卓があり、それを囲んで3人が座ると大徹さんは分厚い書類ファイル3冊を乗せた。

「これは昭和17年と18年、19年の永良寺実記です。永良寺のお寺の中の行事や事件、入山者、下山者などが記録してあるお寺の日誌のようなものです。永良寺の書庫にはこれが鎌倉時代から現在まで膨大な量の日誌が納められています。昭和20年の少し前に在籍した栄心という名前の僧侶という事で、見当をつけてこのあたりを丁寧に見てみました。まずは昭和17年の3月のこのページを見てください。」

と言ってファイルの中ほどの付箋をつけたページを開いた。そこには入山者として数名の雲水の名前があるがその中に坂本大心22歳、京都府舞鶴市字字引戸930と書いてあった。2人は間違いないと確信した。さらに次の付箋は昭和18年の記述で禅問答の質問者に坂本大心とあった。備考欄には大心が臨済宗の高僧明全を永良寺でどのように祀っているか質問したことが書かれていた。大徹さんは

「明全と言う僧侶は臨済宗の高僧で栄西の愛弟子になります。曹洞宗の開祖道元は曹洞宗を始める前に明全に師事し中国の宋に一緒に連れて行ってもらっているんです。しかし中国で明全は病気にかかり死んでしまいます。道元は師匠である明全を火葬し骨を持ち帰ります。その途中、宋に広がっていた中国禅宗の中の曹洞禅に触れ、日本に曹洞宗を伝えたんです。明全の骨は永良寺に持ち帰り葬られたと記録されているんです。ここまでは私も記録を調べてみてわかったことなんですが、おそらく坂本大心さんもこのことを追求したんだと思います。昭和18年の記述では永良寺が明全を特別に奉ずることなく臨済宗との関係も明確にしないことに大心さんは引き下がったようですが、翌年の昭和19年に再び質問しています。しかもその時には貫主猊下に対して曹洞宗と臨済宗の関係について言及しているようです。そこで貫主猊下の逆鱗に触れ破門されたようです。」

と大徹さんの見解を教えてくれた。しかし杉下たちのはもう一つ気が付くことがあった。

「大徹さん、私たちも調べてきたことをご報告したほうが良いかと思います。その前に今話を聞いて思いついたんですが、彼が明全にこだわったのはおそらく彼の実家の寺が明全寺という寺で、元々は臨済宗の寺で栄西の弟子の明全和尚を祀る寺だったからでしょうね。自らの血筋の明全が粗末に扱われていることを知った大心さんは、永良寺を許せなかったのかもしれません。ちなみに私たちが調べてきたことは彼が永良寺を破門になってどこへ行ったかです。彼は昭和19年に破門になりすぐに舞鶴に帰りました。そして軍隊に志願したようです。訓練の後に関東軍に配属になり、満州へ派遣されたようです。新京を警備する部隊に入りましたが、終戦が近づいた昭和20年8月2日、新京の中国人街で中国人ゲリラとの銃撃戦になり、小隊長の命令で幼い子供を撃たなくてはいけなくなった。しかし無垢な子供を撃てなかった彼は、小隊長に銃を向けて撃ってしまったようです。関東軍で軍法会議にかけられましたが、8月9日にソビエト軍が満州に侵攻すると、関東軍は総崩れになり収監されていた坂本大心も、留置を解かれ南へ逃げ、帰還船で日本に帰って来たようです。敦賀についた彼は舞鶴の明全寺へ向かったのですが、既に寺は他人の手に渡り、行く当てがなくなった彼は永良寺を目指したんでしょう。しかし永良寺でも破門が解かれず門前をうろついて線刻磨崖仏を彫ったようです。それを完成させると福井警察署に出頭して宮津の検察庁に送還され、軍法会議の続きを宮津の裁判所で行われたようです。これらの記録は弁護士事務所で判例集から見つけました。彼は舞鶴出身で高校から京都に出て京都帝国大学で哲学を学んだようです。西田哲学に感銘し善と禅について人生をかけて学び続けたんでしょうね。」

と一連の調査結果を報告した。大徹さんは

「何ていう人生なんだ。とてつもなく優秀な人間がボタンの掛け違いから運命が変わってしまったようですね。70年前の出来事だけど、そんな不幸な出来事があの線刻磨崖仏に込められていたんですね。みなさんの執念深い調査で、こんな恐ろしいストーリーを解明したんです。どうか何らかの形で記録を発表してください。」

と感想を述べてくれた。八木さんは

「僕は今、線刻磨崖仏の拓本を額に入れて展示する準備をしています。調査報告書も冊子にして出版するんですが、その中に是非この話は入れたいと思います。坂本大心の人生は是非いろんな人に知ってもらいたいと思いました。」

と興奮しながら話した。

 興奮する八木君を見ながら大徹さんは

「実は明全和尚の位牌を永良寺の寺の中で探してみたんです。するとあったんです。それも道元禅師を祀る承陽殿で見つけました。そして調べてみるといろいろわかったんです。道元禅師は中国で死んだ明全和尚の舎利つまり骨と戒牒つまり発言集を持って帰国し、骨は建仁寺に埋葬したと言われています。また戒牒は永良寺に蔵されているということです。そして、道元禅師が記された「明全戒牒奥書」と、「舎利相伝記」によって明全和尚の行実が残されたそうです。道元禅師は明全和尚を参学師として尊崇していたことは明らかです。しかし長い年月の間に永良寺の中でその事実がだんだん薄れていったのではないかと思うのです。坂本大心さんの禅問答は実は彼の方が正しかったのかもしれません。今となってはそのことを肯定することは出来ませんが。」

大徹さんは申し訳なさそうな表情で語ってくれた。


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