第18話
18、大学病院
4月になり、杉下栄吉は定年退職で教師をやめた。時間は十分にとれる身になった。しかしなかなか重い腰を上げるには至らなかった。11月には20年ほど前にPTA副会長をしてくれていた田中さんを訪ねたが、大心という名前の僧侶は知らないと言われていた。しかし終戦直前の事ならば宮大工の伊藤さんが何か知っているかもしれないと聞いていた。しかし病院に行っていると聞いて調査は中断していた。その栄吉の背中を押したのは永良寺町教育委員会の文化財調査員の八木裕之25歳だった。八木さんは数年前研究職で採用された若い研究員だ。現在は線刻磨崖仏の拓本を作成して額に納め、資料館に展示する準備をする過程で杉下栄吉が調査していることを永良寺で聞いたらしい。5月になり八木さんは杉下を訪ねて来て
「宮大工の伊藤隆さんは終戦当時は18歳でしたがいまは93歳です。高血圧で入院しているらしいので手遅れになる前に病院へ行きましょう。」
と言ってくれた。八木さんに引きずられるように2人はその足で福井大学医学部付属病院へ行き、伊藤隆さんの病室を見舞った。
事前に伊藤さんのご家族に電話連絡してあったのでスムーズに病室へ入ることが出来た。93歳の伊藤隆さんは年齢通りの老人で、部屋に入ったときには目を閉じていた。しかし話しかけると目を開き、意識もしっかりしているし脳の働きも正常なように見える。杉下が
「門前の線刻磨崖仏について調べています。大心という名前が彫られている仏が2体ありますが、昭和20年ごろの大心というお坊さんのことを覚えていませんか。」
と耳元でやや大きな声で話しかけた。すると伊藤さんは杉下のことを睨み
「そんな大きな声で話さなくても聞こえとるわ。耳が痛いだろ。」
と言って耳をさすった。
「すみません、聞こえないかと思ってしまって。大心というのは永良寺に3人在籍していました。江戸時代に1人と明治時代に1人、3人目が昭和17年に入山して昭和19年に破門になって下山しています。そこまでは分かっているんですが、磨崖仏を彫った大心さんがどの大心かは分からないんです。3人目の大心さんのことを覚えていませんか。」
と問いかけると、伊藤さんはしばらく考え込んで
「戦争が終わった8月から10月ごろ、うちの親父のところに薄汚い乞食のような坊主が来ていたような気がする。親父が言うには山門の前で倒れていたから連れてきたと言って、1晩だけ納屋で泊めた気がする。何て名前だったか大心だったか小心だったか、戦争から帰ってきて永良寺に来たと言っていた。それからしばらく親父もあの岩場へ行って一緒に作業をしていたよ。おれはもう18になってたから大工として作業場や現場で働いていたけど、親父は午前中はその坊主と一緒に岩場で仏様を彫る手伝いをして、大工の現場には昼から顔を出していた。しばらくするとその作業も終わって普通の生活に戻ったけど、何かほかにも若者が岩場にいたぞ。随分熱心に仏を彫る作業をしていたのは確かだ。」
と記憶を呼び起こしながら語ってくれた。杉下と八木は伊藤隆さんの話に聞き入り、自分たちの推測がおおむね当たっていたことにびっくりしながら、これから先のストーリーの展開にワクワクしてきた。
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