2「開けて、開けて」
それは少し前。
天が華屋に来た日のこと――
「逃げたぞ! 追え!」
横濱に雨が降る。
「はぁっ……はぁっ……」
歩く度に着物が雨を吸って体が重くなる。
かたかたと歯が鳴り、体が凍る。それでも腹だけは冷やさぬ様に腕でぎゅっと抱きしめる。
「私は……この子を……」
寒さと疲労で体が崩れる。
ばしゃん! と大きな水音は、雨音でも隠し切れない。
「こっちだ!」
「このあばずれが!」
音を頼りに何者かが天を追いかける。
一人、二人、三人……刺青の入ったごろつきは着流しをびちょびちょに濡らしながら、大きな声を上げて天の行方を捜していた。
「は、はは……」
天は己の運命を呪いながらも、思わず笑ってしまう。
これが退魔師の末路だというのか。
***
今より遥か数千年前。
妖が夜の闇より現れ、人々を襲った。
人々は夜を徹して戦い、朝が来ると、妖は姿を消した。
──だが、妖は消えたのではなかった。
異形の姿を人の肉で包み、人の世に隠れ住む術を得たのだ。
今この時にも、我らの隣にいるかもしれぬ。
人を喰い、堕とし、誑かす……
妖と人の道は、決して交わらぬ。
我ら「退魔師」は、そんな妖を殲滅するために戦う、心持つ刃である――
***
母の言葉を思い出す。そう教えてくれた母はもういない。
(いや。もうすぐ会えるかもしれへんね)
最悪の予想に天は自嘲する。
死んだ母は、孕んだ自分を見てなんと言うだろうか。
ましてや腹の子が極道者の子となれば――
(会わす顔があらへん)
死を受け入れようとした天は、身に降りかかる恥に体を無理矢理起こす。
士族に背中の傷などあってはならぬ、いっそ奴らと刺し違えてしまおうか。と退魔の刀を握りしめる。
母が天に残した者はこの刀だけだった。それ以外はすべて棄てた、棄てられた。苗字もない、家もない。
この刀だけが、妖を斬り人を守る一族の誇りを伝えてくれる。
「見つけたぞ、このあばずれ!」
「親子ともども死んでもらう!」
――そんな刀で、人を斬るのか。
天は己の末路を嘲笑いながらスラリと刀を抜いて構える。
男達は一瞬怯むもののの、「今時刀か」と大きく笑って銃を構えた。
「死ねやあ!」
ドン、と火花が散る。
天の腹をめがけて進む鉛の弾は、天を貫くことなく、その手前で二つに分かれた。
キィンと音を立て、天は刀を鞘に納める。一瞬の技。放たれた鉛玉を断ち切ったなどと、一介のごろつきにはわからないだろう。
「クソ、外した!」
ドン、ドン!!
と複数人で連射をするも、それらはすべて天には届かない。
まるで小さな花火のように宙で火花を上げて裂かれていく鉛の玉。
十発を打ったころ、やっとごろつき共もそれが天の剣技によるものだと気づいた。
「ば、バケモンが……」
かちゃり、かちゃり。もうごろつきの銃に弾は残っていない。
天の刀の切っ先が己に向いていると気づくと、男たちは恐れ戦いて銃を棄てて逃げ出した。
「フッ……」
こんな雑魚から必死に逃げていたのかと、天は己を嗤う。
ここを離れなければすぐに別のごろつきが応援に来てしまうだろう。そんな気持ちはあるのに、体はもう言うことを聞かなかった。
ドン、ドン……
子が腹を蹴る度、内臓を揺さぶられて天の顔色は蒼くなる。
体は冷え切っている、今の大立ち回りで体力も尽きた。もう、一歩も動けない。
ドン、ドン……
それでも腹の子は、生きたいと願って暴れる。
その願いに天が応えることはもうできないというのに。
(堪忍、な……)
ドン……
三回目の音は、腹からではなかった。
木戸を叩く鈍い音が、真横から聞こえてくる。
「華、屋……?」
音のする方に目を向ければ、そこには煌々と明かりのついた店。
こんなものがあっただろうか。雨の夜に迷えるものを誘惑するような灯りに、残された体力でふらふらと縋りつく。
(一晩の、宿を借りられれば……)
生きられるかもしれない。
硝子で飾られた木の扉、その内側は虹のような彩光。まるで極楽浄土の入り口のようなその扉を叩こうとした時、異変に気付く。
ドン、ドン……
この音は、
「開けておくれ」
耳をすませば、雨の音にも負けてしまいそうな男の小さな声。
「どうか、入れておくれ」
(どういうことや。入れて欲しいのは私の方なのに)
入口出口があべこべな状況。この不自然さはまるで――
「まだいたぞ! 殺せ!」
だが、天に考えている時間はなかった。
案の定追手は人手を増やして再びやって来た。複数人の音が雨の中を走る音が聞こえる。もう刀で立ち回れる体力はない。
「どうぞ、お入りください」
天は意を決して言葉を紡ぐ。
入れてください。はい、どうぞ。このやり取りは、招かねざる客を引き寄せる禁術。
この世ならざるものを、この世に引き寄せる合言葉。
天の言葉に呼応して、重たい扉はガラガラと開かれる。
――そこにはこの世のものとは思えぬ美しい鬼が立っていた。
漆黒の髪に、大きな角。火のような赤い目は地獄の業火の様。
「ああ、やっと入れた」
低い声は人を惑わし、人を恐れさせる。
天は、現世にあってはならぬものを引き寄せてしまった。
「我は
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明治幽世遊郭~ジンガイ・セツクス・エデユケエシヨン~ 百合川八千花 @yurikawayachika
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