【後編】嘘を暴いたのは、あなたの体温だった
夜の学校は、昼間とは別の生き物のようだ。
部室棟へと続く渡り廊下は、頼りない街灯に照らされて、深海のように静まり返っている。放課後の喧騒も、潮騒の音も、ここまでは届かない。
僕は松葉杖を引きずりながら、その静寂を汚すように野球部の部室へと向かった。
パチリ、と蛍光灯を点ける。
埃の舞う古い部室には、汗と石灰と、使い古された革の匂いが充満していた。
僕はパイプ椅子に腰を下ろし、慣れた手つきで道具を取り出す。カバンから取り出したのは、磨く必要のないほど綺麗なバットと、新品同様のボールだ。僕はそれをあえて汚れた雑巾で拭い、床に散らばった土を練習着の膝にこすりつけた。
「……馬鹿みたいだ」
呟きは、虚空に消える。
顧問の先生からは「エースの自覚が足りない」と叱責され、父さんには「チームへのお詫びのために毎日部活へ行け」と命じられた。だから僕は、練習した形跡を捏造する「偽装工作」に耽る。 不意に、背後で引き戸が開く音がした。
「誰かと思ったら。真木、下校時間はとっくに過ぎてるぞ」
振り返ると、多田コーチが立っていた。 外部コーチ。三十五歳。独身と女子生徒が騒いでいた。
この学校のOBで、数年前から指導に来ている彼は、僕がこの町に来てから一度も「エースとしての責任」を口にしなかった、唯一の人だ。
「足、大丈夫なのか」
多田さんは部室の中に足を踏み入れた。使い古されたスニーカーが砂を踏む。
「はい。歩く分には、だいぶ」
「……そうか。なら良かった。部活のみんなも事故のこと気にしてたぞ」
「親父に言われたんです。怪我なんて甲子園前に情けない、部活には毎日顔を出せ。それがチームへのお詫びだって。」
多田さんは何も言わなかった。ただ、僕を見つめている。
その視線に耐えられなくなって、僕はわざとらしく笑って、磨きかけのボールと、泥で汚した練習着を差し出した。
「どうです、完璧な偽装工作でしょ。ちゃんとグラウンドに出て、後輩を指導してきた。そんな顔をして帰るんです。……滑稽ですよね」
彼は一瞬、呆れたように目を見開き、「お前なぁ……」とふっと肩の力を抜いた。
苦笑が、部室の冷えた空気をわずかに緩める。
多田さんの笑い声につられるように、僕も小さく声を漏らした。
「ねえ、多田さん。ちょっと付き合ってもらっていいですか」
■ ■ ■
夜の校庭。スポーツ用の照明が、校舎の影を長く、鋭く地面に落としている。
僕たちは、わずかに明かりの届く場所に立った。
手には、先ほど磨いたばかりのグローブ。
「足、本当に大丈夫なんだな?」
「受けるだけなんで。投げられない分、多田さんが投げてください」
「じゃあ、いくぞ」
彼の腕がしなる。
放たれた白球が、暗闇を切り裂いて手元に届く。
パンッ。掌に伝わる、痺れるような衝撃。いい音だ。忘れていた感覚。
「……うん。もう一球。お願いします」
僕はボールを彼の方へ転がした。多田さんの投球が、徐々に鋭さを増していく。
ど真ん中。小気味よい音。
僕は無意識に口角が上がるのを感じた。
「多田さん。本気で投げてください。現役のつもりで」
「……ど真ん中投げられなくても、絶対に無理するなよ」
「わかってますって」
多田さんが、深く呼吸を整えた。
本気のピッチングフォーム。
放たれたボールは、凄まじい勢いで僕の右側へ逸れた。暴投だ。
「あ!」
反応したのは、僕の脳ではなく、身体だった。
僕は地面に体を転ばせ、左手を伸ばした。ズサリ、と土の感触。
ミットの端に、ボールが収まる感触。
「……っ、痛ったぁ!」
「おい、大丈夫か……!」
多田さんが、血相を変えて駆け寄ってくる。
「……捕った。捕りましたよ、多田さん」
「バカ野郎。お前は、本当に……」
「おおげさですって。……でも、楽しかったな」
ポツリと、心の底から言葉が漏れた。
僕はグローブを外し、土のついた掌を見つめる。
野球を捨てたはずだった。事故を盾にして、逃げ切ったはずだった。
それなのに、今、僕の胸を支配しているのは、焼け付くような未練だった。
足の痛みが、現実を思い出させる。
多田さんは何も言わず、僕の前に背中を向け、ひざまずいた。
「ほら。乗りなさい」
「え、歩けますよ」
「いいから」
「駐車場すぐそこなのに、おせっかいだなぁ」
「ちゃんと自分の身体を大事にしてほしいからだ」
僕は恐る恐る、彼の広い背中に腕を回した。
ゆっくりと、多田さんが立ち上がる。
視点が高くなる。多田さんの歩みと共に、僕の体が優しく揺れる。
表情の見えない、彼のうなじを見つめる。
この温もり。
視界が急激に滲んでいく。
僕をただの「光」として背負ってくれる、この人は。
それが、僕の嘘を暴いていく。
「おれ、バカだったのかなぁ」
一度こぼれた言葉は、もう止められなかった。
「やっぱ……甲子園、出たかったなぁ……っ」
水田を庇ったのは、逃げるためだったはずだ。
期待から解放されるための、都合のいい事故だったはずだ。
なのに、どうしてこんなに胸が苦しいのか。
涙がポロポロと溢れ、彼の肩を濡らした。
声を出して泣いた。子供のように。
もうどうでもよかった。
多田さんは歩みを止めなかった。重いはずの僕をしっかりと支え、夜の闇を一歩ずつ、踏み締めていく。
「しっかり休んで、身体を治せ。……決勝まで、必ず水田たちで繋いでやる。お前はそれまで、待っていろ」
その声は、どこまでも優しかった。
夜の校庭を抜ける、冷たい風。
けれど、背中から伝わる体温が、僕の凍りついた心を、少しずつ、少しずつ溶かしていった。
遠くで、潮騒の音が聞こえる。
この町に来て、初めて、僕は自分の居場所を見つけたような気がした。
読切版:ブルー・バイ・ユー 明日羽トンボ @asuwa_tonbo
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