読切版:ブルー・バイ・ユー

明日羽トンボ

【前編】期待という名の檻、あるいは逃避

その町へ運ばれたのは、春の香りがまだ鋭かった頃だ。


大阪。喧騒。

すべてを切り捨てて、僕は潮風の吹く港町へとやってきた。

父の言葉は、絶対的な宣告だった。


「お前を絶対に甲子園へ行かせる。そのための、最善の選択だ」


大阪という魔境。誰もがツワモノ揃いの激戦区で、いくら強豪校のシニアで揉まれたスキルがあったとしても、代表の一枠を勝ち取れる保証などどこにもない。

だから、あえて競合度の低い地方へ移り、甲子園へ出る確率を限界まで引き上げる。 僕のような「野球留学生」にとって、それは珍しくもない、生存戦略の一種だった。



■ ■ ■



期待という名の、逃げ場のない檻。

三国高校、野球部。


編入してきた僕は、すぐに「外様のエース」になった。

中学時代、大阪の修羅場で鳴らしたこの右腕は、この静かな町の部員たちには、異世界の兵器のように見えたらしい。


当然のように背負わされた、エースナンバー「1」。

だが、僕がその椅子に座ることは、三年間この土を耕してきた誰かの居場所を奪うことと同義だった。


練習中、僕の背中には常に視線が刺さっていた。

羨望と畏怖。そして、よそ者から向けられる冷ややかな疎外感。

「真木がいれば、今年は甲子園に行ける」 監督や周囲のそんな声が、僕の肩を重く、硬くさせていく。


本当は、野球なんてどうでもよかった。


中学最後の夏、マウンドで見た泥まみれの敗退が、僕の中の「熱」をすべて吸い尽くしてしまったから。 僕はただ、父が決めた「確率の高いレール」の上を、死んだ目をして走っているだけだった。


隙を見ては逃げ出した。

練習の合間、潮の匂いが漂う海岸へ向かう。

漁港を出る小舟。

堤防の先の灯台。


現実逃避をする中で好きになったことがある。

僕はスケッチブックによく絵を書いていた。最初はノートに暇つぶしに書いていただけだったが、この町のさみしい景色が僕を慰めた。そのうち文具店で小さなスケッチブックを1冊だけ買って、そこに海の風景を書いていた。


波の動きを鉛筆でなぞっている時間だけ、僕は、奪う側でも奪われる側でもない、ただの高校生に戻れた気がした。



■ ■ ■



あの日も、そうだった。


雨上がりの夕暮れ。

練習をサボって海を見に行こうとした僕を、後輩の水田が追いかけてきた。


「真木先輩、またサボりですか。多田先生、探してましたよ」


水田久志。二年生。控えの投手。

僕のような「借り物の才能」ではなく、泥臭く、必死に練習にしがみつく、この町育ちの少年。


「うるさいな。先に行ってろよ」不機嫌に背を向けた僕の視界に、濡れたアスファルトを滑るトラックの影が入った。

水田は、僕のスケッチブックが落ちたのを拾おうとしていた。

そんな、僕の逃避の証拠なんて放っておけばいいのに。


――ドン、という鈍い衝撃。


水田を突き飛ばした瞬間、僕の世界は左足の激痛と共に暗転した。

全治三ヶ月。

外様のエースの夏は、一冊のスケッチブックと引き換えに消滅した。



■ ■ ■



夜の三国海岸、突堤の先。風が叫んでいる。


松葉杖がコンクリートを叩く、乾いた音。

左足のギプスは、重い呪いだ。


父さんには「情けない奴だ」と一喝された。

チームメイトの視線は、同情から、やがて「戦力外」を見る冷淡なものへ変わった。


あと一歩。


ここで落ちれば、父さんの期待からも、チームの責任からも、この痛む足からも解放されるだろうか。

いや、望んでいたことじゃないか。僕は野球から逃げたかったんじゃないか。


その時、突風が僕の野球帽をさらっていった。

空を掴もうとした指先が、空を切り、僕は無様に尻もちをつく。


「……クソッ!」

死ぬ勇気さえない。情けなくて、僕は海に向かって松葉杖を投げ捨てた。

波に呑まれる。さようなら、僕の足。

動かない足を、拳で殴る。何度も。何度も。



■ ■ ■



翌日の放課後教室は、オレンジ色の夕陽に焼かれていた。


「松葉杖、どうしたんだよ」

「なくした」

「なくしたって、どうなくすんだよウケる」

「元々片足しか怪我してないんだ。大げさだよ」

「部活ないなら、どっかいこうぜ」

「…いや、大丈夫」

「そ。またな」


すでに他の生徒も部活のために教室を出ており、最後に光が残った。

一本だけの松葉杖を頼りに、光も教室を出る。

放課後の喧騒が、背後へと遠ざかっていく。


部活へ向かう生徒たちの波。遊ぶ場所もないこの町ではほとんどの生徒が部活に所属している。元より「帰宅部」というのはこのあたりの親からしたら論外だろう。

その逆流を泳ぐように、僕は一本の松葉杖を突き、人気のない旧校舎側の階段へと足を進めた。。


「真木先輩!」


背後から飛んできたその声に、心臓の奥がちくりと刺された。

振り返ると、そこには水田久志が立っていた。

僕の代わりにマウンドを託された、頼りない二年生。


「先輩、本当に、本当にすみませんでした」


水田は深く、直角に頭を下げた。

その姿勢が、僕の罪悪感を逆なでする。


「……もういいって、言っただろ」


うんざりした言葉を吐き捨て、視線を外す。

けれど、水田は顔を上げない。震える声が、踊り場の冷たい空気に滲んだ。


「……あのとき、僕なんか、助けんといたらよかったんです」


息が止まった。こいつは何もわかっていない。

あの雨の夕暮れ、トラックが迫る中、僕は確かに水田を突き飛ばした。けれどそれは、美談でもなんでもない。僕が投げ出したかった「エース」という呪いを、水田に押し付けただけだ。

僕のような「外様」が投げるよりも、この町を愛しているこいつが投げる方が、きっと本人も、チームも、町の人たちも、みんな納得するはずだった。僕はただ、この足を代償にして、正当にマウンドを降りるための「理由」を拾い上げたに過ぎないのだ。


「水田。練習はどうした。……行けよ」

「僕ひとりじゃ、甲子園なんて投げられません。先生、言ってます。真木先輩やったら勝てたのにって。……僕じゃ、無理なんです」


熱い塊が喉元までせり上がってくる。勝手な期待。無責任な失望。

僕がようやく手放したものを、なぜまた僕の腕に無理やり戻そうとするのか。


「もういいから練習行けって! 今、ピッチャーはお前しかおらんのやぞ!」


言葉と一緒に、足元に置いていた鞄を投げつけた。中身の詰まった重い塊が、水田の足元に転がる。水田は弾かれたように顔を上げ、怯えたように僕を見た。その瞳に映る僕は、きっと醜悪な本心を隠しきれていなかった。


「……そのうち、また部活にも顔出すから。だから、行け」


嘘だ。あんな場所、もう戻りたくもない。

水田は泣き出しそうな顔で僕を一瞥し、逃げるように階段を駆け下りていった。


静寂が戻る。投げた鞄を拾おうと、無意識に左足へ力を込めた瞬間、膝が笑った。

あっ、と思う間もなく、視界が歪む。

一本の松葉杖が虚しく空を切り、僕は踊り場から数段、無様にずり落ちた。


鈍い衝撃。打った腰よりも、ギプスの奥の傷が疼く。僕は立ち上がることを諦めた。 

「エース」を降りた代償は、たったこれだけの不自由さ。冷たいコンクリートに背中を預け、天井を仰ぐ。ため息さえも、夕闇に溶けて消えていった。



■ ■ ■



屋上のフェンスに寄りかかり、スマホの画面を見つめる。

動画サイトに上がっているのは、数週間前の僕だ。


――三国高校、実に十年ぶりの甲子園出場となりましたが、今のお気持ちは?

マイクを向けられた画面の中の僕は、少しだけ照れたように笑っていた。


『……正直、プレッシャーもあります。けど、やれることをやるだけだと思っています。期待に応えられるように頑張ります』


期待に応える。笑わせるな。その期待に応えようとした右足は、今や石膏の塊に包まれている。画面の中で完璧なフォームを披露するエース・真木光は、もうここにはいない。


風に乗って、遠いグラウンドから笛の音と掛け声が聞こえてきた。

仲間の声。僕の居場所だったはずの場所。

いや、そうだっただろうか。僕は彼らと壁を作り、必要以上に仲間であることを拒んでいた。それでも僕に期待するやつらも、いたのは確かだが。元よりいるべきでなかったという気がする。


僕は震える指でイヤホンを耳の奥まで押し込んだ。

大音量で流れる音楽が、外界のすべてを塗りつぶす。


瞼を閉じれば、まだあのマウンドの土の匂いがする。

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