オーロラのあるところ
芳岡 海
オーロラのあるところ
オーロラの噂は知ってるよ。
公園でオーロラが見えるって話。でも、あれって北極とかに出るやつでしょ。テレビで見たことある。通学路のどっかの公園で見えるわけないじゃん。
クラスのリーダーが誰になるかはだいたい初日にわかる。このクラスは森くんだ。
六年生の新学期の初日から、森はイスに横向きに座ってぺちゃくちゃ喋っていた。
僕は森と四、五年生のリレー選抜で一緒だったから、彼がどこでも注目を集めてみんなを笑わせたり盛り上げたりできるやつだってことは知っていた。
朝も登校した僕の顔を見つけるなり
「耕太! リレーで一緒だったよな!」
と声をかけてきた。かと思うとすぐまた別の新しい顔を見つけて話しかける。そうやってあっという間に新しいクラスで居場所を作っていた。
喋るたびに大きな目と口がよく動いて周りの目を引いた。背の順は後ろの方で、髪がつんつんしていて、地区のミニバスクラブでバスケをやっている。机の上のランドセルは乱暴に扱われていた。ランドセルをそうやってくたくたに使い込むのが男子の間ではかっこよかったから、森のランドセルはかなりかっこいい感じだった。
初日にはよくわからないやつもいる。たとえば森の後ろの席の吉井くん。
吉井は新学期に登校すると、森のことも新しいクラスも興味なさそうにただ自分の席に座った。冷めてるやつだと思った。前髪がかかった目は眠たそうに見えた。背の順は後ろの方だけどひょろひょろしていた。
でも、話してみれば暗いやつでもない。昼休みのドッチボールにも誘えばちゃんと参加する。うるさくも暗くもない。優しくも乱暴でもない。どっちつかずなのはとにかく吉井の全部に言えることで、まず自己主張というのを全然しない。
「あと一人、誰かいませんか?」
玉木先生が、黒板に書いた「木琴」を指さして教室を見回した。玉木先生はおばあちゃんに近いおばちゃんの先生で、きびしくないからラッキーと思ったけど、授業も学級活動もベテランらしくぐいぐい進めるからたまに注意が必要だ。
音楽発表会の合同演奏でやる楽器のうち、木琴の演奏者が決まらなかった。ピアノはもともと上手な田村さんに決まり、大太鼓は似合うという理由でガタイのいい篠田になり、鉄琴は鈴木さんが立候補した。残るは木琴。そもそもリコーダー以外の楽器は放課後に練習があるから、やりたがる人が少ないのだ。
教室は、しんと誰も動かなかった。これが決まれば学級活動は終わって帰りの会になる。早く帰りたい。でも、やりたくない。
「今、女の子が二人に男の子が一人だから、男の子で木琴やりたい人はいないかな?」
玉木先生が言う。話を進める助け舟なのだろうけど、もし女子でやってもいいかなと思っている人がいたら言えないじゃん。これじゃ決まんないぞ。いや、このままいくと玉木先生は男子の中でじゃんけんで決めさせるかもしれない。男子たちがちょっとそわそわし始めたように見えた。
そのとき、森が後ろの席の吉井へくるっとふりむいて
「吉井、おまえやれよ。はい、吉井くんがいいと思います」
返事も聞かずにそう発言した。
森は先手を打ったのだ。こういうタイミングをわかってる。こうやって誰か発言しないか教室が待っているときを逃さない。だから無理に大声を出さなくてもするっと意見を通す。
吉井を推薦したのはどうせ、ちょうど近い席にいて文句を言わなさそうだから、というだけだ。
吉井は黙っていた。たまたま自分の名前が呼ばれただけと思っているみたい。
「どう? 吉井くん」
玉木先生が優しくたずねた。吉井が無言で先生を見る。先生は木琴の文字の下をチョークで指して、彼が返事をすればすぐここに吉井くんの名前を書きますという姿勢だった。
そして、吉井はその通りに
「じゃあ、やります」
と答えて、それで決まってしまった。いいのかよ! と見ていた僕は思った。
サッカーで鍛えたおかげか、僕は四年生と五年生でリレー選抜になった。そのときの森は僕と同じくらいの身長だったけど、身長以上に存在がでかかった。今では身長もでかくなっていた。
「やっぱりバスケは背が伸びるのよね。サッカーの姿勢は重心が低いから背が高くならないって聞いたのよ」
お母さんがそんなことを言うから僕はムッとする。そんなこと言ったらサッカー選手全員小人じゃん。
「俺、サッカー好きでやってんだよ」
ならいいのよ、とお母さんは僕の「ムッ」には気づいていない顔で言う。
クラブのサッカーは楽しい。思いっきり走るのも力いっぱいボールを蹴るのも声を出すのも好きだ。チームみんなのパス回しがうまくいってゴールが決まったときなんか、すっごい盛り上がる。なんだよ、背が低いくらい。高いやつにだってサッカーなら負けない。
去年、五年生の一学期に流れていたオーロラの噂の出どころは知らない。学校の近くの公園でオーロラが見える、って話。
女子は盛り上がっていた。二人で見ると両想いになるとか、午前一時にあの世とつながるみたいな話もあった。女子って普段は男子のことをばかにするのに、なんで夢見がちなことで騒ぐんだろ。しかもこっちがつっこんだりすれば「わかってない」とか言うんだ。
でもどこの公園かという重要なところは誰も知らなかった。公園なんていくつもある。僕の通学路には、クラゲに似た遊具があるからクラゲ公園と呼ぶ公園がある。広い公園だけど、オーロラなんて想像できないよ。
◇
音楽発表会の練習は予定通り、リコーダー以外の楽器の練習が放課後の音楽室で始められた。
といってもそんなにきびしいものじゃないらしい。ピアノの田村さんは家で練習できると言うし、篠田の大太鼓はあんまりやることはないらしく、鉄琴の鈴木さんはいつも他クラスの女子と一緒に音楽室に行っていた。吉井は謎だったけど、音楽発表会を特別心配する人もいないから、誰も木琴の練習の具合を知りたがらなかった。
森は吉井を推薦することに成功して味をしめたようだ。頼めば言うことを聞かせられるってこと。でも無理に言ってるみたいにはしない。
「算数ドリル見せてよ。おまえやっぱ頭いいよな」
とほめ言葉を混ぜたり
「中庭行くところ? じゃドッチボールの場所取っといてよ。これ置いてくれればいいからさ」
と仲良さそうに自分の荷物を渡したりする。
吉井はたいして表情を変えないで、ついでという感じで引き受けている。断る方がめんどうくさそうな感じ。僕だったら絶対嫌な顔するし、断るけどね。
通学路なんだから本当は決まった道を通らなきゃいけないけど、毎日同じは飽きる。それにいろんな道を通る方が発見がある。
というわけで僕は正しい通学路より、細い道や空き地や公園をよく通って帰る。クラゲ公園は坂の途中にあって、坂をいかした巨大滑り台と、広場と遊具(一つが白くてクラゲに似てる)がある。
久しぶりにクラゲ公園を通って帰ろうと思って、僕は巨大滑り台の横の階段を登っていた。木の階段はよく踏まれるところがすり減ってへこんでいる。滑るのは一瞬なのに、登るとなかなかある。
あと少しでてっぺんというところで顔を上げると、上がった先の植え込みに吉井がいるのに気がついた。びっくりして、思わず「えっ」って言った。吉井はもっと前から気づいてたらしくてこっちを見ていた。
「何してんの」
階段から声をかけた。
「ひとやすみしてるだけ。俺もここ通学路だから」
吉井は長い前髪の奥の眠そうな目で答えた。草の上で手を後ろについて足を投げ出し、たしかにひとやすみの格好だった。彼の視線を追って振り向くと、坂の下の町が目の前に広がっていた。遊んでいるときに遠くの景色なんて見たことなかったからちょっと驚いた。吉井の座る場所まで来てみると木に囲まれて居心地が良かった。坂の下は一面に家が並んでいた。滑り台の下もよく見える。僕がせっせと階段を上がってくるのもここからまる見えだった。
それからたまに公園で会うようになった。喋るときも喋らないときもあった。
その日は白熱したドッチボールだった。昼休み。男子はたくさん参加していて、女子も結構いた。森は僕の敵チームで、バスケで鍛えた強いボールをばんばん投げてきた。僕のいるチームもガタイのいい篠田を中心に攻撃していて、僕もそこに食らいついていた。吉井は敵チームにいた。よける専門で戦力にはなってなかったけど。
どちらの内野もだいぶ減って、いよいよ盛り上がってきたところだった。
ドッチボールよりやっぱりサッカーが好きな僕は、そのとき、飛んできたボールを咄嗟に蹴り返してしまった。ボールがちょうどいい位置にきて上手く蹴るルートが見えてしまったのだ。それで相手の女子を一人アウトにした。
「足に当たったから耕太がアウトだろ!」
喜ぶ僕のチームに向かって、森が声をはり上げた。
「当たったんじゃなくて蹴っただろ!」
僕も叫んだ。蹴ったのを足に当たっただけと言われるのは許せなかった。しかもそれで一人アウトにしたのに。
当たった、蹴った、アウトだと両チーム言い合いになる。僕がアウトにした女子は困っていた。
決まらないかと思われたとき
「ドッチボールは手で投げる競技なんだから、蹴ってる時点でだめだろ」
吉井の言葉にすっとみんな黙った。長い前髪に隠れた眠そうな目はいつもと同じだけど、説得力のあるひとことだった。僕も他の味方も言い返せなくて、結局僕がアウトになり、僕が当てた女子のアウトは無効になった。「よっしゃあ!」と森がガッツポーズする。別に森が何かしたわけでもないのに。その横で吉井は別に、って顔だ。
なんだよ! いつも何も言わないくせに、今だけいいこと言うのかよ。
言いたいけど何も言い返せることがなくて、思いっきり地面を蹴ったら校庭の砂が舞った。
クラゲ公園には相変わらずときどき吉井がいた。でもドッチボールのときみたいなことは何も言わない。好きなサッカーチームの話をしてみたり、野球の方が好きなのかと聞いたりしたけど、どれも興味なさそうだった。「木琴って順調なの?」と聞いたら「悪くないよ」という返事だった。
じっと黙っていると、救急車のサイレンやトラックが走る重たい音が遠くの方から聞こえてくる。サッカーの選抜とかその日のドッチの勝敗とか森の発言とかが、ここにいると少し遠いことに思えた。することはなかったけど不思議とつまらなくはなかった。
「明日はドッチで森に勝ちたいな」
何か喋りたかったけど何もなかったから、ひとりごとみたいに言ってみる。吉井は隣で指を広げたり反らせたりと謎の屈伸運動をしている。滑り台の下で低学年が遊んでいて、上の広場には五年生らしきグループが自転車を乗りつけている。
「勝ちじゃなくてもいいから、森のボールキャッチしたい」
吉井が答えないので勝手に話を続けた。
「吉井もたまにはボール取れよ」
「俺はよける専門」
僕が話を向けると吉井は悪びれもなく言った。
「それじゃドッチ勝てないだろ」
「別に」
はりあいがないや。そう思いつつも嫌な顔をされるわけじゃないから、公園で会うといつも僕が勝手に喋った。
◇
オーロラの噂が再熱していた。一度消えてまた出てきた話だから「本当に本当らしい」なんて真剣さがあった。さらに、それを吉井が知ってるって噂がどこかから流れていた。表情のわかりにくい吉井が逆にそのせいで秘密をかくしているように思われた。何度知らないよと言われても、女子は諦めないどころか逆にちょっと盛り上がっている。
「まじで知らない」
森に何か言われても表情を変えない吉井が眉をしかめて、困ったような迷惑そうな、でも怒っているわけでもなさそうな顔でそう言って教室を出て行った。木琴の練習は続いているようだった。
「誰か聞きに行きなよ」
「えーわたしじゃ教えてもらえない」
女子がひそひそ話す。
変な注目がひそかに吉井に集まっているのだった。そんなふうに話してたってわからないんだから、本当に知っていそうな人を探してばしっと聞けばいいのに。と僕は思ったけど自分でそれをやるのはめんどくさい。
「俺聞けたら聞いてみようかな。ま、わかんないけど」
我が物顔で森が言う。えー無理じゃない? と女子がひそひそ声のまま返す。
「じゃ俺が聞く」
その気もないのに口を挟みたくなって僕が言う。
「え、耕太じゃもっと無理」
女子が今度はばっさり言う。何がちがうんだよ。森が、俺と吉井の仲だからな、なんて笑うので「は、俺にも仲はあるし」とか言い返してたら女子はいなくなってた。
森はドッチボール以来、吉井を仲間扱いするようになっていた。都合よく頼みごとをするのは変わらなかったけど、大人しく見えて案外頼りになる、なんてちょっと見直したのかもしれない。
よく見ると吉井の方もたまに森を受け流したりさりげなく断ったりしていて、実はやられっぱなしではないのだった。森も一回断られたくらいで怒り出すほどガキじゃないから、このままうまくいきそうに思われた。
事件は音楽発表会目前の木曜日に起きた。その日は掃除が終わったら帰れるという、いつもと違う時間割だった。
「このあと残るんでしょ」
ちょうど良かった、というよくやる口調で森が吉井に言った。またかよと僕は思う。
「俺、急いで帰んなきゃいけなくてさ。ごみ集めて捨てるの、やっといてくんない? 音楽室行くついでにさ」
「ごみ集めまではできるだろ」
僕が横から言った。森は早く帰りたいだけだ。けれども
「残れる人が残って帰る人は帰れれば、時間が無駄にならないだろ。しかも教室移動するついでなら効率的じゃん。絶対そっちの方がいいっしょ」
森があまりにすらすら言うから、言われた僕はそうかなという気がしてしまう。
「な!」
と肩を叩かれて、気づくと僕と森の会話は済んでいた。吉井は何も言わず前髪の奥で森を見ていた。
でもそこからいつもと違った。
吉井は手に持っていたごみ袋を森に差し出し「できるでしょ」と軽く言った。あまりに当たり前のように言うから、森も一瞬「おう」って向かい合ってしまった。でもそれじゃ森は済まない。すぐにいつものペースを取り戻す。
「いやいや、吉井できるでしょ」
吉井くんなら、という調子。
いつもならそれで吉井が「まあね」とか言うのを「サンキュー! まじ助かる!」なんて森がすかさずいい雰囲気に持っていく。もしくは「じゃこれだけ」と言う吉井に、「しょうがねー」って森が妥協した感じになっておさまる。
でも今日はそんなふうに上手くいってなかった。吉井は何も言わない。でもごみ袋を差し出す手もおろさない。これを無視すればはっきり森が掃除をさぼったことになる。何でもうまくやる森は、それはしないと思う。
「いや」
森のくっきりした目とまゆ毛に迫力がこもった。それで引かなかった吉井はすごい。その分、森はイラついたと思う。
気づけば教室中が二人を見ていた。
同じくらいの背の二人は並ぶと正反対に見える。くっきり大きな目の森と、眠たそうな吉井。つんつんの短髪と、伸びた髪。森はたぶん、ずっとむかついてる。何を言っても吉井が表情を変えないことや、噂になることや、自分のペースに巻き込めないことが。
「秘密の用事でもあんの?」
森がちょっと笑って別のところから攻めた。何ムキになってんの、みたいな。
「もしかしてオーロラ見に行くとか?」
「え。何、森もオーロラ見たかったの?」
吉井のそれは本当にただの質問だったかもしれない。でも状況から言って森を怒らせるには十分すぎた。
吉井はごみ袋を持つ手を下げなかった。ほとんど押しつけるようなその手を森は払いのけようとしたが、吉井はがっちり力を入れている。森はそれをつかむ。
「は?」
宣戦布告と受け取った森が言った。それでもちょっと笑っていて、あくまで本気じゃなくて冗談だって顔だ。でも吉井は本気だと僕は思った。昼休みのドッチボールとは段違いのひりひりした空気を感じた。言ってやれ、と思った。冷めた顔してるけど、吉井だって本当は森に言いたいことあるだろ。
「森、お前ちゃんとやれよ!」
黙っていられなかったのは僕の方だった。咄嗟に出たその言葉が、ちゃんと掃除やれよ、だったのか、本気の吉井に冗談で済まそうとするなよ、と言いたかったのかはわからなかった。
考える暇はなく、森の手を僕がおさえようとする一瞬前、森が吉井の手を力いっぱい押しのけて突き飛ばした。その勢いで僕はただ巻き添えをくう形で吉井とともに後ろに倒れた。吉井が後ろの机に倒れこんでかなり大きな音がした。
森は、吉井がすぐやり返してくるつもりだっただろう。でも吉井は倒されたままもう何もしなかった。ちょっと顔をしかめただけで森の方を見ることもしなかった。森が吉井を倒して終わった。
保健室! と女子が騒ぎだす。森に何か言うか吉井を心配するべきか僕が迷っているうちに、森がごみ袋をぐしゃりとつかんで教室を出て行った。
◇
いるかどうかわからなかったけど、夕方にクラゲ公園に行くと吉井はいた。
今日は階段からではなく上の広場から来たから、木の向こうに吉井が見えた。手を後ろについて足を投げ出した後ろ姿に声をかける。吉井はちらっと僕の方を見て、うなずいたような、ただ前髪をはらっただけのように首を動かした。
大丈夫だったのと聞くと、無言で長袖のシャツをまくり、右肘の大きな湿布を見せる。その横に立って、坂の下を見下ろして、それから僕も隣に座った。
「森、謝ってきた?」
「いや」
僕が聞くと吉井は首を振った。
「吉井は、試合に負けて勝負に勝ったんだって教室で言われてたよ」
教室で聞いた言葉を僕はそのまま言った。吉井はしばらく黙っていたが急に、
「勝つとか負けるとか、ほんと嫌い」
と言った。うんざりした声だった。
「俺の兄ちゃん、しょうごって名前なのね」
急な話に僕はぽかんとする。吉井は構わない。
「勝つって漢字に俺の名前と同じ字で『勝悟』。大変だよね、生まれたときから勝たなきゃいけない運命だよ。俺ずっと『お兄ちゃんに負けないように』って言われてきたんだよね。兄弟で勝ち負けって何? 早いもん勝ちじゃん。早く生まれた時点で勝悟が有利じゃん。で、俺の名前は『友悟』だよ。『みんなで仲良く』ってこと? 勝たなきゃいけないし仲良くもしなきゃいけない?」
吉井は『負けないように』とか『仲良く』のところをわざとらしく猫なで声で一気に言った。つまんなそうな声の中で猫なで声は目立ち、なぜかそれで吉井が怒っているのがわかった。あ、でも。と彼は続ける。
「喧嘩だけは、先に手出した方が悪いから『早いもん負け』なんだよなあ」
今度は少し笑っていた。全然おもしろそうじゃなかった。
僕は彼の言ったことを頭の中で繰り返した。だからさ、試合に負けて勝負に勝ったってことなんだよ。もう一度言おうとするのをさえぎるように、吉井は僕の顔を見る。
「勝つのってそんなにうれしい?」
ピーマンってそんなにおいしい? みたいな、俺には意味わかんないんだけどって言い方だった。
考えたこともない質問に、僕はたぶん口が開いていた。そんな当たり前のこと疑ったら何もできないじゃん。何か頑張ったり、喜んだり、悲しんだり、どきどきしたり、決断したり、何も。
「負けた方がいいわけ?」
頭の中をめぐらせた結果、そう返した。そんなわけないと思いながら、でもその質問を言いかえればそういうことじゃないかと思ったし、だから森に反撃しなかったのかとも思ったのだ。
吉井は表情も変えずに黙っていて、それは重たい空気になった。僕に向かってその空気をじわじわ出しているみたいな、彼がそこに飲み込まれているみたいでもあった。勝たなくていいわけじゃないんだと思う。だったら森にも冗談で済ませれば良かった。十分すぎる沈黙をおしのけて吉井は答える。
「負けるのが悪いことなら、相手を負かすって悪いことじゃない?」
言葉遊びじゃないとはわかったけど、それ以上の意味をすぐには受け取れなかった。吉井は僕の返事を待たずに続ける。
「もしもさ、俺と森が、殴りあいとかで正々堂々と喧嘩したとするじゃん。やり合って体が痛くて、それでたとえば、俺が勝つとするじゃん。森が『負けました』とか言う。正式に俺が勝ちでしょ? でも、そもそも喧嘩しなかったら痛くもないし、誰も負けないからそっちの方が良くない?」
吉井がそこまで言ったとき、僕と吉井はまっすぐ目を合わせていた。投げ捨てるように話し始めた彼の言葉は、少しずつはっきりとした言葉になった。そして言い終わった瞬間、またぷいと顔をそむけた。
さっきより外が暗くなってもうすぐチャイムが鳴ると思った。
「俺ピアノ習ってるんだよね」
急にさっぱりした口調になって吉井が言う。聞いたことがなかったから驚いた。こいつって予想外のことばっかする。
「なら、木琴じゃなくてピアノに立候補すれば良かったのに」
「しないよ」
吉井は笑って軽く言う。
「そうなの?」
「でも楽譜は見慣れてるから、木琴も悪くなかったよ」
悪くない、は吉井の言い方だ。いいとも悪いとも、好きとも嫌いとも言わない。
吉井は後ろに手をついていた姿勢から上体を起こし、体育座りの姿勢になる。ひざに腕を乗せ、手のひらの砂を払うと、空中で鍵盤をたたく動きを始めた。坂の下に見える屋根を楽器にしているみたいだった。
指が長い。指の一本ずつが自由な生き物のようだ。ピアノを弾くのが楽しいのだと、その動きが言っていた。
「お兄ちゃんもピアノやってんの?」
僕が聞くと、まさか、と吉井は笑った。
「あいつは野球ばっかの野球バカ」
「へえ」
「勝悟が野球なら俺はサッカー、とかじゃなくてもっと全然違うことやりたくて、それでピアノって言ってみただけなんだけどさ、まあ悪くないよ」
「いつからやってんの?」
「小二」
話しながら指は空中で動いていた。音がなくても白と黒の鍵盤を思い描いている。でたらめじゃない。日がかげった町は少しずつ灰色になってところどころの窓がきらきらして見えた。
「ピアノなら勝ち負けなくていいね」
「あるよ。ピアノにも」
はっきりと言われた。そうだねと言われると思っていた僕は、吉井の指に力が入ったのを見て少しひるんだ。
「突き指したら弾けないから、ドッチはよける専門」
弾きながらぽつぽつと吉井は話を続ける。
「木曜はピアノの練習あるから、残れない」
「そうだったんだ」
「今日は保健室行ったから、結局ピアノ行けなかったけどね」
鼻で笑って吉井はそう言った。森にあんなにまじになったのにさあ。全然意味ねーじゃん。そう続けた言葉が、今までで一番悔しそうだった。
「でも森には効いたと思うよ」
「別に森が何しようと俺はどうでもいいの。ピアノ邪魔してこなければ」
「ピアノは、勝ちたいの?」
「違う」
左手を大きく開き右手の指はこまかく動かしながら吉井は言った。
「じゃあなんだよ」
「勝ちたいんじゃなくて、弾きたいの」
見えないピアノの鍵盤を、吉井の両手が急にばんと叩いた。クライマックスだったのか中断だったのかわからなかった。わかりにくい表情のまま、前髪の奥で目だけを大きく開いて前を見つめていた。遅れて僕もその方向を見る。
坂の下の家の一つ。三角の屋根の、その上の方にある大きな窓だった。昼の光が落ちきる直前の時間だった。空はかろうじて明るくて、地面は薄暗くて、昼でも夜でもなくどちらもあった。三角の屋根にあるその窓がちょうど西日を反射させた。鏡のような反射ではなく、白と青と緑を混ぜたような色にふわっと光る。虹のようにくっきりしてはいないマーブル模様で、透き通って、音もなく広がり、それはホログラムの折り紙のオーロラの色だった。
うわあ、とか言おうとして口を開けたまま僕は固まっていた。なんだ、オーロラってこんなことだったのか。
見とれているうちに光はすうっと姿を消す。
「今の季節の太陽の位置がいいらしい」
完全に消えたのを見守って吉井が言った。
「しかも場所が大事らしくて、道路とか広場からじゃ見えない。最近何回かここで見た」
「知らないとか言ってたくせに」
僕が言うと、吉井はふふっといたずらっぽく笑った。前髪の奥で目がきゅっと細くなって、あんまり見ない笑い方だった。空中のピアノ演奏は終わっていて、吉井は膝の上で頬杖をついて景色を眺め続けていた。前髪を風が揺らしている。
それでもやっぱ勝ちたいけどね、と僕は思う。でもその勝ちってなんでもありかもしれない。人から勝ったよと言われたって自分がそう思わなきゃ意味ないし、逆に自分で勝ったって思えれば、もうそれでいいのかもしれない。
「木琴の練習帰りに寄ると、ちょうど見える時間だったんだよね」
「じゃあ森が推薦してくれたおかげじゃん」
「そうなんだよ。感謝しないと」
今までで一番悪ふざけっぽい言い方で吉井が言った。
オーロラのあるところ 芳岡 海 @miyamakanan
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