ハードボイルド園児

青出インディゴ

長いお別れ

 午前8時、季節によっちゃまだ朝靄の中を、電動自転車の後部座席で疾駆する俺。今日もミッションが始まる。その名は――保育園。

 ほどなく自転車は園に着く。玄関先で母親ママが連絡帳を取り出す様子を横目で見つつ、俺は葉っぱを吸う。今日の葉っぱはいつもより苦味が染みる。

「りょうちゃん! そんなの食べたら、メッでしょ!」

 母親ママが血相を変えて葉っぱを取り上げる。これがどんなに心を慰めてくれるか、この類いの女にはわからないのだ。だから俺は泣く。恥も外聞も捨てて泣く。そもそも恥なんざ俺にはないのだ。園児に恥。エンジニアに休日と同じくらい、不条理な取り合わせだ。

 俺の泣くのを微笑ましげに眺めながら、他児や保護者が登園していく。

「あらあら、りょうちゃん、離れるのさみしーってなってるの? ママにバイバイしようね。ママまた夕方来てくれるって」

 保育士せんせいに抱き上げられると、急速に頭は冷え、涙は引いていく。涙の理由を取り違えられているのは心外だが、説明もできず、また遅刻に怯える母親ママも説明はせず、慌ただしく別れのときは来る。ボタンの掛け違い……ここではそれが日常茶飯事だ。


「みなさん、おはよお、ございます~、せんせい、おはよお、ございます~」

 朝の会が始まる。居並んだ他児の顔には、一様に実存に対する問いがありありと浮かんでいる。なぜ自分はここにいるのだろう、自分はどこから来たのだろう、自分はこれからどうなってしまうのだろう……。しかし考えても答えは出ない。その答えはただ、保育士せんせいの今日の連絡によってのみ明かされるのだ。

「今日はみんなで園庭で遊びます!」

「えんてー!」

「えんてーえんてー」

「やったー」

「えんてーだってー!」

 その喜びのライムはさながら場末のヒップホップ。フロアの熱気が高まるのを感じる。園庭には滑り台、ブランコ、鉄棒、そしてなにより――お砂場がある。わかった、白状しよう。俺も心を震わせられずにはいられなかった。

 俺たち園児は我先にと園庭に躍り出た。


 給食。これがこの場におけるハイライトと言っていいだろう。

 今日のメインは骨取りホキのムニエル風。付け合わせに彩りサラダ。残念ながら次点と言うほかない。やはり男は肉でなければ。その点、昨日のチキン竜田風はよかった。俺は遠い過去に想いを馳せる。

「おかわりくーだーさいっ!」

 ひとりが声を上げれば、他のメンバーも倣い始める。

「ぼくもくーだーさいっ!」

「くーだーさいっ!」

 俺の案に相違して、意外にもホキは人気があった。もちろんホキだって悪かあない。ただ……お前ら、本当に信念を持って生きているか、と問いたい。ホキが旨かったからと言って、チキンへの想いをないがしろにしていないか、と問いたい。

「みなさん、あとおかわりはおしまいですよー。あとひとつ食べたい人はいるかなあ」

 はーいっ、と俺は無自覚のうちに手を上げていた。


 お昼寝の時間に保育士せんせいが何をしているのか、それはこの世のすべての事象のうち、最も不可解なことのうちのひとつだ。もちろん俺は眠れずに寝たふりをしているときもある。それは認めよう。だが、立ち上がって騒げば叱られるシビアなこの世界で、どうやって保育士せんせいの様子まで観察できよう? それは永遠の謎だった。が――連絡帳の園通信欄はいったいどの場面で書かれているのか? ときには、点と点を繋ぎ合わせて答えを探すこともあった。

 今日も静寂のときは過ぎていく。


 ハイライト第二章とも言える「おやつのじかん」を経て、いよいよ母親ママの出迎えを待つばかりとなった。このときばかりは、皆のそわそわした様子に共感を覚えずにはいられない。俺たちは他児に基本的に興味はないが、しかし感情を共有する共同生命体だと思うこともある。泣けば泣く、笑えば笑う。それが社会生活を生存戦略として選んだ人間たるものの本能なのだろう。

「さなちゃん、おむかえでーす」

「ママー!」

「りつくん、おむかえ来たよー!」

「パパ来た、パパ!」

 ひとり、またひとりと、帰宅の途に着く度に、胸に冷たい空気が忍び寄るのを感じる。今日もまた彼女は来てくれるだろうか。またひとりが帰る。俺は取り残されていく。置き去りにされるんじゃないか。俺はひとりぼっちでここに……。

 胸の風が嵐になり、台風となって荒れ狂い始めたときに、彼女はやってきた。

「りょうちゃん、ただいまー!」

「ママー!」

 俺は一散に駆け寄り、母親ママの温かな胸に飛び込んだ。

「おかえりなさい! 今日もりょうちゃん頑張ってましたよ。園庭で初めて滑り台滑れたんですよ! それから大好きなお砂場でお友達と仲良く遊んでました。お昼寝のときはママーって泣きましたけど、抱っこしたらすぐまた寝て。あと、ご飯とおやつおかわりしました」

「へえ~滑り台滑れたの、りょう! やったねー」

 俺は胸がほかほかし、なにも言えなくなる。男は背中で語る。察してくれ。

 電動自転車が夕暮れの都市まちを駆け抜ける。

 午後5時、ミッション完了。あとは、入浴の攻防戦を残すのみだ。

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