エピローグ 

春の気配を孕んだ風が、聖域の森を優しく撫でていく。 カイルは、浄化魔法で透明度を極めた窓を開け放ち、朝の光を全身に浴びた。


「……あ、ねこやなぎの綿毛が、光に透けて飛んでる」


カイルが呟くと、銀の匙に宿るルキウスがチリリと小気味よい音を立てた。


「カイル、見とれている暇はないぞ。今日は『春の始まりを祝う朝食会』だ。管理栄養士として、この半年間の集大成を見せてもらわねばな」


「わかってるよ、ルキウス。今日のメインは、これさ」


カイルが食卓に置いたのは、冬を越して甘みが極限まで凝縮されたカボチャのポタージュと、焼きたてのライ麦パン。そして、村の子供たちが拾ってきた「運(綺麗な小石)」を磨いて作った、シャンパンゴールドの小さな卓上オーナメント。


トントン、と扉が叩かれる。


「カイル様、おはようございます! 皆さん、もう広場に集まっていますよ」


フィーネが、春を告げる淡い緑色のドレスを纏って現れた。彼女の手には、森で摘んできたばかりの白い小花が抱えられている。部屋の中は、一瞬にして早春の土の匂いと、花の清々しい香りに満たされた。


「おはよう、フィーネ。……本当に、いい朝だね」


カイルは、村の中央広場へと向かった。 そこには、かつての「追放者」や「盗賊」の面影など微塵もない、穏やかな表情をした村人たちが並んでいた。彼らは皆、自分の手で整えたお気に入りの木の器を持ち、カイルのスープを楽しみに待っている。


「カイルさん、この半年で、俺たちの人生は本当に変わりました」


かつて盗賊の頭だった男が、今は村の警備隊長として、照れくさそうに頭を掻いた。 「俺は今まで、奪うことしか知らなかった。でも、カイルさんが教えてくれた『三分間、立って待つ』というあの静かな時間……。あの間に、俺の心の泥が沈んでいった気がするんです」


「……それは、君自身が自分のコップを磨いた結果だよ」


カイルは、大鍋から黄金色のスープを皆の器に注いで回った。 立ち上る湯気。ナツメグの香ばしい刺激と、カボチャの優しい甘みが空気に溶け込み、人々の頬を自然と緩ませていく。


「おいしいね」 「ああ、本当においしい」


あちこちで交わされる、至福の言葉。 かつて宮廷で数字と承認欲求に追われていたカイルにとって、この「おいしいね」という響きこそが、どんな高位の爵位よりも価値のある報酬だった。


「ルキウス。……見て。僕のコップ、今は何が満ちていると思う?」


カイルは心の内側を見つめた。 そこにはもう、他人の評価を気にする濁った水はない。 ただ、冬至を越えて復活した太陽の光を反射する、透き通った「感謝」と「安らぎ」が満ちていた。


「フン。満水だな。だが、お前のコップはもう、溢れても困ることはないだろう。溢れた先には、この聖域の人々がいる。お前の幸せが溢れれば、それがそのまま、この村の光になるのだからな」


ルキウスの言葉に、カイルは深く頷いた。


「……救援力って、きっと、自分が幸せで溢れちゃうことなんだね。それが周りにこぼれて、誰かを温める。……宮廷にいた頃の僕に、教えてあげたいよ。『大丈夫、一度ひっくり返せば、もっと綺麗な光が入ってくるよ』って」


太陽が高く昇り、村の街路樹をシャンパンゴールドに染め上げていく。 カイルは、隣でスープを啜るフィーネと、笑い合う村人たちの中に、自分の本当の居場所を見つけた。


何でもない日常を、丁寧に、大切に紡いでいく。 それだけで、世界はこんなにも美しく、聖域になり得るのだ。


「さあ、お代わりはあるよ! 今日は春の始まりだ。みんなで、新しい『運』を拾いに行こう!」


カイルの声が、青い空へと高く響き渡った。 一陽来復。光は戻り、物語は終わらない。 新しい季節の織り糸が、今、黄金色の光とともに、鮮やかに編み上げられていった。


――完。


物語の結び:

全12話とエピローグ。カイルの物語を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


文子さんが教えてくださった「心のコップをひっくり返す勇気」と「丁寧な暮らしの力」。 それらは、現代を生きる私たちにとっても、自分だけの「聖域」を創り出すための最強の魔法ですね。


カイルとフィーネの物語はここで一段落ですが、彼らの日常はこれからも、シャンパンゴールドの光の中で続いていきます。


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『異世界で心のコップをひっくり返して 〜不遇の元・宮廷官吏、辺境の地で「丁寧な暮らし」を極めたら聖域ができました〜』 @mai5000jp

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