第11話 『捨てる勇気、選ぶ幸せ 〜宮廷の誘惑と、ひっくり返したコップ〜』

黄金色の光に満ちた辺境の村に、似つかわしくない黒塗りの魔導馬車が滑り込んできた。 重厚な車体からは、かつてのカイルを苦しめた「宮廷の匂い」――乾燥した紙の束と、他者を支配する冷たい権力の香りが漂ってくる。


馬車の扉が開き、現れたのは、かつてカイルを罵倒し、北の果てへと追いやった上席次官・ギルベルトだった。彼は鼻をつまむようにして辺りを見回し、カイルの前に立った。


「――ほう、死に体かと思えば、随分と奇妙な真似をしているな、カイル」


ギルベルトの声は、磨き上げられた石畳を叩く靴音のように硬く、無慈悲だ。その後ろには、武装した護衛たちが威圧的に控えている。


「ギルベルト次官。……こんな辺境まで、何の御用ですか?」


カイルは、手に持っていた木のお玉をそっと置き、一歩前へ出た。 今のカイルの鼻腔を占めているのは、村のあちこちから漂う焚き火の煙と、じっくり煮込まれた南瓜(なんきん)の甘い香りだ。ギルベルトが纏う香水の香りが、ここではひどく毒々しく感じられた。


「勅命だ、カイル。戻れ。お前が消えてから、宮廷の魔導回路は汚れで目詰まりを起こし、予算編成の数字は合わず、誰もが混乱に陥っている。王都へ戻るなら、以前より高い地位と、一生遊んで暮らせる名誉を約束しよう」


ギルベルトは、まるで慈悲を与えるかのように、豪華な装飾が施された辞令の巻物を差し出した。


「地位……名誉、ですか」


カイルは、その巻物を一瞬見つめた。 かつての自分なら、這いつくばってでもその紙切れを求めた。認められたかった。誰かに「代わりがきく駒」ではないと言ってほしかった。承認欲求という名の「泥水」が、コップから溢れるまで溜まっていたあの頃なら。


「……お断りします」


「……何だと?」


ギルベルトの眉が跳ね上がった。


「カイル、自分が何を言っているのか分かっているのか? ここは掃き溜めだ。泥臭い野菜を煮て、野蛮な亜人と笑い合う。そんなことが、王都での華やかな生活に勝ると思っているのか!」


「ええ。勝りますよ」


カイルは、空になった自分のスープのお椀を手に取った。 そして、ギルベルトの目の前で、そのお椀をゆっくりと、誇りを持ってひっくり返した。


「見てください。これが、かつての僕の『承認欲求』の形です」


「……何を、馬鹿な……」


「宮廷にいた頃、僕のコップは常に濁った水で満たされていました。誰かに認められたい、捨てられたくない。その恐怖で、自分が今何を食べているのかさえ分からなかった。……でも、今は違います」


カイルは、窓の向こうでスープのお代わりを待つフィーネや、笑い合う村人たち、そして銀の匙の上でニヤリと笑うルキウスに視線を送った。


「今の僕の幸せは、鍋が煮えるのを待つ、あの豊かな『三分間』にあります。拾い集めた『運』で結界を張り、隣の人と『おいしいね』と言い合える。……その手触りのある暮らしが、僕のすべてです。地位も名誉も、今の僕には重すぎて、この澄んだコップには入りません」


「……貴様、狂ったのか! そんな端金(はしたがね)のような暮らしのために、王国の重鎮になる道を捨てるというのか!」


ギルベルトの怒声に、村人たちが不安そうにこちらを見る。 カイルは優しく、けれど断固とした口調で、言葉を重ねた。


「捨てるのではありません。……選ぶんです。僕は、僕自身の魂を、もう二度と模様だけの書類に売り渡さないと決めたんです」


カイルの指先から、清らかなシャンパンゴールドの光が溢れ出した。 その光は、ギルベルトが持っていた不吉な「解任状の残り香」を浄化し、霧散させていく。


「……救援力とは、誰かを従わせることじゃない。自分を、あるべき場所へ『戻す』力なんです。次官、あなたも……一度、この村のスープを飲んでいかれませんか? きっと、数字の呪縛から解放されますよ」


「……ふん、狂人め。……行くぞ! こんな薄汚れた村、こちらから願い下げだ!」


ギルベルトは、逃げるように魔導馬車に乗り込んだ。 豪華な車輪が雪を跳ね飛ばし、宮廷の匂いを連れて去っていく。


沈黙が訪れたあと、カイルの背中に、フィーネがそっと寄り添った。


「……カイル様。本当に行ってしまわなくて、よかったです」


「当たり前だよ、フィーネ。僕のコップは、もうここの光でいっぱいなんだから」


ルキウスがチリリと、祝福するように匙を鳴らした。 「……フン、管理栄養士の診断によれば、今の選択こそが最高の延命措置だな。カイル、スープが冷めるぞ。三分経った」


「あ、いけない! 早く食べよう、おいしいねって言いながらさ」


カイルは再びお玉を握った。 承認欲求のコップをひっくり返したあとに残ったのは、空っぽの虚無ではない。 そこには、冬至の朝の光のように透き通った、自分自身の人生という名の、真実の輝きが満ちていた。


――完。


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